ミコヤン
MiG-25 フォックスバット

旧ソ連のミグ設計局は、1960年代の初めからマッハ3級の超音速飛行が可能な高高度迎撃戦闘機の開発を始めた。これは米国が1950年代から高高度より敵地へ侵入する超音速爆撃機B-70を開発していた上、マッハ3を出せる超音速戦略偵察機の計画も進んでいたため、それらを迎え撃てる戦闘機を必要とした結果だ。

米国の超音速爆撃機のほうは試作機を製造しただけでキャンセルされたが、ソ連の迎撃戦闘機は開発が進み、1972年頃MiG-25 フォックスバット戦闘機として実用配備された。最大実用速度は時速約3,000キロで、マッハ3に届かなかったものの、当時世界最速の戦闘機となったのである。

乗員1人の単座戦闘機だが、大出力のターボジェット・エンジン2基を積み、超高速飛行へ耐えられるよう頑丈な機体にしたため、小型軽量機を得意としてきたミグ設計局としては異例の大型戦闘機が誕生し、またMiG-25用に最大探知距離80キロの高性能レーダーが開発され、長射程の空対空ミサイルと組み合わせることで高い迎撃能力が期待された。

ただ、任務を敵爆撃機の撃墜へ特化したため、兵装はミサイルのみで機関砲を搭載しなかった反面、速度と上昇力を追求するあまり、高速飛行時は燃料消費の大きいアフターバーナーで推力のほとんどを得る仕組みとした上、スチールを多用した機体は重く、きわめて燃費が悪い。

1976年9月、ソ連極東のウラジオストック北東約200キロにあるサカロフカ基地のソ連防空軍所属MiG-25が北海道の函館空港へ強行着陸し、パイロットは米国に亡命を求めるという事件が起こる。当時、西側陣営はMiG-25の性能をほとんど把握しておらず、高速性能だけでなく格闘戦能力も高い万能戦闘機だと信じられていた。

そこで日本政府は米国と協力し、入手した機体をバラバラに分解して徹底的な調査を行う(その後、機体はソ連へ返還)。調査の結果、速度性能が高く、高高度の迎撃能力は優れていても、大型の機体は鈍重で機動性に欠けることなどが判明するのだ。

こうしてMiG-25の性能を西側へ把握されたソ連は、以来、レーダー機能を強化した改良型を開発する他、偵察機、電子戦機、爆撃機としてもMiG-25を使用するようになり、一部はロシア空軍へ引き継がれてゆく。



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