空中四万哩 (その1)
これまでいろいろと旅行をしてきた中でも、一番ドサクサだったのは1990年夏の旅である。1ケ月間で3回の日本行きとヨーロッパが1回、空路にして4万マイルを行ったり来たりしたのは、つい昨日のことと思っているうちに早8年近い歳月が流れた。その時の体験は「海底二万哩」ならぬ「空中四万哩(13,000 Leagues Above the Sky)」と題し、1冊のノンフィクションにまとめたが、その中からいくつかのトピックを拾ってご紹介したい。
連載第1回目の今回は、距離でいえば東京とロサンゼルス4往復半を旅するきっかけ・・・・・・プロダクション・オフィスもたたみ、ただ執筆に専念する私が遠藤シリーズ第4作目を仕上げたばかりの1990年6月のことだ。かつて“ファニー・カンパニー”というバンドをやっていた時のプロデューサー、T氏より久しぶりで電話をいただいた。小説家でもある氏とは音楽上の関係がなくなった後も共通点は多く、20年以上のつき合いである。
この時、T氏が電話をかけてきたのは、プロデューサーとして氏が係わるプロジェクトへ私にも参加しないかと打診するためだ。プロジェクトとは東京で新しくオープンするライブハウスの仕込みで、参加するとすれば、私はアメリカ側のプロデューサーになる。ほとんどのスタッフが揃っていたばかりか、ロサンゼルスでは、このプロジェクトのため雇用された弁護士がオフィスまで開けていたにも拘(かか)わらず、いざ動き出すとT氏は私のようなアメリカでプロダクション業務を経験する人間が必要となったのだ。
ライブハウスの出演者は欧米のトップ・アーチストを予定しており、夏のオープニングを控えて交渉が終わっている者も多い反面、彼らと実際のステージ作りをプラニングする段階でつまずく。いくら芸能関係を扱う弁護士でも、音響と照明担当者を相手取り、機材のことやステージをどう作るかまでは打ち合わせられない。また、いくら日本側の担当者がプロでも、海外とのコミニケーションは言葉以前の問題で何かと障害がある。物を作る現場では、欧米の個人主義とグループ・ダイナミックスの国日本との違いが、どうしても目立つ。
つまり、アメリカ側のプロデューサーとは日本と欧米とのギャップを調整する役だ。弁護士が出演者のマネージメント会社側と交渉するのと平行して、こちらは出演者の現場スタッフ側とステージ作りをしてゆく。グレース・ジョーンズのようにマネージャーがステージ作りまでやる場合は、打ち合わせる段階でこちらもそれなりの全体像を把握しておかない限り、決断を迫られて返事が出来ない状況になりかねない。要は日本代表のつもりでないと話を進められず、かといって日本側のスタッフといえば、こちらがバンド側の人間であるかのごとき態度を見せる覚悟は必要な仕事といえるだろう。
ともあれ、ここしばらく私が執筆に専念していることを承知のT氏である。アメリカ側のプロデューサーといっても自宅で電話とファックスを使う仕事なので、執筆は今までどおり続けられるというのが、私を誘った前提なのだ。その思いやりも嬉しかったし、いろいろと世話になってきた氏へは何かをしたい気持ちもあった。仕事として報酬が見合うものであったのは言うまでもない。
キッド・クレオール
アンド・ザ・ココナッツ
加えて、ほぼ2年間、執筆に専念してきた私は、すっかり世間と遠去かっており、そろそろコンピュータ以外と顔を合わせるのも悪くない気がした。そういう時期的なものや諸々の理由から、私はT氏の申し出を受ける決意をし、さっそく動き出すのである。ゲストとして招待されたオープニング・パーティーへ向かい、着々と準備が整ってゆく。しばらく背を向けていた世間に飛び出す新鮮さは、執筆へも刺激となった。そして、この時点で誰がオープニング・パーティー後のドサクサを予想しよう?
なお、余談ではあるが、T氏の申し入れを受けたのは出演バンドのラインアップが関係なくもない。私の処女短編「天使達の街」は殺人現場で“キッド・クレオール・アンド・ザ・ココナッツ”のアルバムが流れている。一方、仕上げたばかりの中編集「奴にまかせろ!」で作中の会話に登場するのは“エクスポゼー”だ。その両方がラインアップへ含まれているのを見れば、これも何かの縁、やるしかないではないか! (続く)
横 井 康 和