芸者ツアー (下)
南禅寺を出て市内の繁華街で買物をしたりするうち、早くも陽が暮れ始め、私とシンシアは宮川町へ向かう。京都の三大花街「祇園」、「先斗町」、「上七軒」と比べて知名度が劣るとはいえ、宮川町ならではの雰囲気がある。目指す茶屋は鴨川を渡って、すぐそこだ。
掃除の行き届いた玄関を入ると、顔見知りの女中が私たちを出迎えてくれる。案内された2階の座敷は襖を取り外した8畳と6畳2間で、中央に黒塗りの卓(テーブル)が2つ並ぶ。それを囲む座椅子9脚は上手へ1脚と両側へ4脚づつ置かれ、下手が空けてある。左側の座椅子には先客のSが座っており、Hはまだ来ていない。
そもそも茶屋が一元の客を取らないので、芸者遊びをしたいなら最初は馴染みの客と行くことになる。Hが初めて来た時も、彼の取引先である西陣の呉服屋へ招待させた。Sはその呉服屋の若旦那なのだ。Hを通じて京都や大阪ばかりかL・A(ロサンゼルス)やホノルルでも会い、お互い気心が知れている。私を見て笑顔で立ち上がったSにシンシアを紹介し、2人は握手を交わす。
芸者に囲まれたシンシア
やや場違いなスタイルで挨拶が終わり、私とシンシアは右側の座椅子へ落ち着く。間もなく部下を連れたHが登場し、場は盛り上がってゆく。ちなみに、この夜もSが招待した形なので、座敷代は彼が持ち、花代は上座へ着いたHの分担だ。後者のほうが高くつき、それぞれいくらぐらいの金額かは皆さんのご想像にお任せする。
Hが初めて来た時は当然ながらシャンパンなど置いてなかった茶屋も、今やHやSが来る時はドン・ペリニョン数本と生のオレンジ・ジュースを仕込んでおくのが習慣だ。シャンパンをオレンジ・ジュースで割った“ミモザ”
ヨーロッパでいう“バックス・フィズ”をHへ紹介したのは私だが、凝り性の彼は私以上にはまっていた。いいシャンパンをオレンジ・ジュースで割るなんて、と眉をしかめる人がいる。しかし、それは逆で、いいシャンパンを使ったミモザほど美味い。贅沢ができるうちは楽しまないと損だ。そう思わないなら、最初から芸者遊びへ興味を持たないほうがいいだろう。その点、Hは人一倍のバイタリティーがあり、茶屋の客としては相当ユニークな存在といえる。また、遊び方も綺麗なので、女将(おかみ)や芸者から「好かれる客」のタイプなのだ。
Hの座敷だと、ただでさえ盛り上がる芸者たちが、シンシアのような珍客を迎え、ますますピッチは上がる。どちらも原点がエンターテイナーだから、通じるところはあるのだろう。女将(おかみ)までが悪ノリし、突如として宮川町へ出現した「不思議な空間(トワイライト・ゾーン)」は広がりつつ、古都の夜が更けてゆく。
前半はシンシアへ座敷のしきたりや舞子と芸子の違いを教えたり、ゲームが始まると遊び方(ルール)を説明すると、ごくありきたりの展開だったのもいつしか崩れ、後半はすっかりアバンギャルドの世界なのだ。三味線を弾く(?)シンシアを見て、20年来いつも持ち歩いてきたミノックス35ELを取り出しついで、カメラマンへ没頭し始めた私が、自分自身の黒縁のレイバンやHたちから集めたサングラスを芸者全員にかけさせ、ファインダーを覗くと“ブルース・ブラザーズ”の芸者版、うれしくなってしまう!
そうこうしながら、盛り上がりはピークを越し、気分転換に1階へ移動する。玄関の反対側が応接室を改装したカラオケ・バーなのだ。全員のリクエストでシンシアは何曲か歌い、その後、Sが彼女をダンスに誘うと、今度はいきなり“シャル・ウィ・ダンス”か“1941”の世界・・・・・・
再び盛り上がる全員の元気(エネルギー)で呆れながらも、ようやくお開きとなったのが深夜近く、それから実家へ帰るかどうかは成り行き次第で決めるつもりだった。結果、宮川町を出た私とシンシアが落ち着く先は大阪の日航ホテルと、最後まで予想外のシナリオが展開する。こうして昼過ぎに京都へ着いて半日後、私とシンシアの“芸者ツアー”は幕を閉じるのだ。
東洋と西洋文明の交流が国際社会へどれだけ貢献したかはさておき、いま振り返ると、この夜、国際親善の一端を担う貴重な時間を過ごした気がする一方で逆の考えも浮かぶ。芸者遊びを体験した数少ないアメリカ人の1人がシンシアである。しかし、知らないアメリカ人へ説明する場合、彼女ほど不適格な人間もいないのではなかろうか? もし、彼女が自分の体験を話したら、聞いたアメリカ人は絶対に間違った認識を持つ。
文化の交流や国際親善がどうあれ、1つだけ確実なのは、私の人生からシンシアが姿を消した今も、そして将来も、この半日間の出来事だけは私の脳裏から消えやしないということだ。
横 井 康 和