映画と糞(シット)


 「新しい時代」に続くテーマが、いきなり「」では突拍子がなさすぎるきらいもあり、まずは副題(サブタイトル)を「日米比較文化論」としておく。そこで本題へ入るわけだが、ひょっとして、アメリカ人は人一倍「糞」が好きな国民ではないだろうか? ハリウッドで暮らしていても、日常生活で何かといえば「シット(糞)!」という言葉を耳にする。映画や小説の世界とて同じことだ。英語がわからなくてもいいから、今度アメリカ映画を見る時は少し劇中の会話へ耳を傾けるだけで、いかにこの言葉がよく出てくるかおわかりいただけるだろう。
なぜ扇風機?
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 同じ「4文字言葉(いわゆる禁句)」ながら、さすがに「fuck」という台詞を控えている映画でさえ「shit」ならまだ許せるらしい。子供でも糞をするのだから当然かもしれないが?・・・・・・ともかく、老若男女を問わず、アメリカ人は「シット」が好きだ。悪戯を見つかった子供は、その瞬間「シット」と口走り、厳しい親なら子供が4文字言葉を使えば叱ることは叱るのだが、もし叱った直後、時計を見ると約束の時間に遅れそうだと気づけば、そこで親の口をつくのは「シット」の一言なのである。

 ミステリーやサスペンス映画なら、アメリカ政府の高官ばかりか大統領に至るまでが、この台詞なくして脚本は完成しない。某国と折衝中の大統領が、その国の予期せぬ出方を知った瞬間の台詞は「シット」。また、世間から軍事行為を非難された某国が、記者会見で言い訳をするニュースを聞いた場合、大統領の台詞はもう少し表現が豊かで「ブル・シット(牛の糞)」。このパターンは、ずいぶん昔から使われているようだ。

 拙著「突然、愛で!」の第4章で、主人公ビリー柏木刑事が聞き込みの途中、相手は「ブル・シット」と吐き捨てる場面がある。日本語なら「くだらん」ぐらいの感じだ。その言葉を無視して質問を続ける柏木刑事へ、今度は同じ意味合いで「ラビット・シット(兎の糞)」、しばらくするとそれが「スネーク・シット(蛇の糞)」に変わってゆくのもこのパターンのバラエティーといえよう。もっとも、一般的な言い方としてはさほど使われない「ラビット・シット」や「スネーク・シット」と比べ、ポピュラーなのが馬や鶏の糞だ。「ホース・シット」は「ひどいもの」を、そして「チキン・シット」は「弱虫」を意味する。

 また、バライティーは動物ばかりと限らず、きわめて範囲が広い。かつて映画「アニマル・ハウス」の中でも印象的なのは、主人公ジョン・ベルーシと彼の仲間たちが、何かあるたび声をそろえて言う台詞「ホーリー・シット(聖なる糞)」であった。これは根底に信仰があってこそ生まれる表現ながら、信心深い日本人ほど、こうした「不謹慎」な発想はしない。どちらがどうと賛否を論じるのは別の機会へ譲ったとして、私の脳裏に1つ疑問が浮かぶ・・・・・・「聖なる糞」とは、いったいどういう代物なんだろう?・・・・・・あなたなら具体的なイメージを想像できますか!?

 いっぽう、そこへ至る発端なら簡単に想像がつく。そもそも人間を含めた動物は糞をする以上、自然な環境ほど、うっかり糞を踏んでしまう可能性がある。踏んでしまった時のあのグニュッとした感触を好きな人間とは、過去半世紀の人生で1人として出会わなかった。つまり、誰しも同じような拒否反応を示すらしく。たぶん、うっかり踏んでしまった誰かが「シット」と罵(ののし)ったところから、この表現は始まっているに違いない。したがって、ややニュアンスが違っても、日本では怒った時に「クソ」とか「チクショウ」と言い、その他、どこの国の言葉であろうと多かれ少なかれ似かよった表現が使われているはずだ。

 ただ、私の知る範囲内では、その使い方がアメリカほど表現色豊かな国も珍しい。「シット」や、そこへ感嘆詞の「オー」を組み合わせた「オー・シット」という基本パターンは、日本の「クソ」や「チクショウ」から、より日常的な「ヤバイ」や「ヒドイ」や「チェッ」と舌打ちをするような場面で使われる。こうした基本パターンを発展させ、「気分が悪い」ことを「feel like shit」、「じっと我慢して屈辱に耐える」ことを「eat shit」や「take shit」と表現する感覚も、言われてみればなるほど納得できそうだ。ちなみに、「クソクラエ」は「eat shit」でなく「shit on you」と言い、それならば糞を食らわせようとするのと頭の上へ糞をするのと、はたしてどちらが相手に与えるダメージは大きいだろう?・・・・・・またしても、重大な疑問が浮かぶ。

 われわれ日本人にとって、英語で「お前は最低の人間だな」を「You are full of shit」というときの発想が「このクソ野郎」と、あるいは英語で「それがどうした」とか「気にするもんか」を「I don't give a shit」というときの発想が「糞の足しにもならない」と近く、比較的わかりやすい。しかし、発想は近いこれらの表現も、日常語として使われる頻度となれば開きがある。英語と比べ、日本語の「クソ野郎」や「糞の足しにもならない」をふだんよく使う人はどれぐらいいることよ?

 日本語より語意が少ない英語は、結果として「シット」を含む単語1つ1つがいろんな意味合いを持つ。たとえば、英語で「彼をこてんぱんに殴りつける」を「beat the shit out of him」、これは「疲れきった」と言いたい時にも使える。「beat」を「殴る」と解釈して使えば「糞を垂れ流すまで殴る」の意味が、「打ちのめされた(つまり疲れた)」と解釈して使えば「糞を垂れ流すほどの疲労困憊」へ変わるわけだ。さらに極端な場合は、たんなる強調のため、ほとんど感覚だけで「シット」を使ったりもするが、そうなると意味合いは考えたところで始まらない。

 いい例が「積み荷」との合成語で「大量」を表わす俗語「shit load」だ。日本語で「クソみたいに速い球を投げやがる」というときの「クソ」同様、「糞」を「積む」となぜ「大量」なのか追求するぐらいなら、あっさり「量」を「やたら」で強調しているのだなと納得し、あとは有効な時間の使い方がいくらでもある。時間の使い方といえば、アメリカ人の「シット」という表現をしつこく解説するのもあまり有意義とはいいがたく、ここらがそろそろ潮時かもしれない。そこで、最後(エンディング)は私が未だ感心させられる「shit hit the fan」という絶妙な言い回しである。

 映画でこの台詞が出てくるたび、日本の字幕はどんな訳か気になるが、ハリウッドの映画館では無理な相談だ。その点、小説だと邦訳で確かめる手があり、トム・クランシーデビッド・ハグバーグなどを読みながらこの台詞が出てくるたび邦訳を確かめようと思いつつ、実行しないまま10年以上経ってしまった。というのも、結果はあるていど予測がつくため、もとより期待するだけ無駄だと承知の上だからである。じっさい、自分自身、このニュアンスをどこまで表現できるか自信は持てない。

 CIAがどこかの国で何か策略を錬ったとしよう。ある程度の危険は覚悟でゴーサインを出したラングレー(CIA本部)が固唾を呑む中、作戦は順調に進む。そして、意外なほどスムーズな現地の動きがラングレーの張りつめた空気を和(やわ)らげかけたところへ、ワシントンポスト紙が作戦をすっぱ抜く。そうとは知らぬラングレーの作戦本部に、右手で新聞を掲げて駆け込む1人のエージェント、ここがもし大阪府警なら彼は、

 「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ!」と叫び、注目する上司達の前へ読売新聞を広げる場面だ。冒頭で扇風機が登場するのも、じつは大阪府警ならぬCIA本部でエージェントが代わりに言う台詞と係わっている。その台詞とは、
聖なる糞?
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 「シット・ヒット・ザ・ファン!」・・・・・・つまり「まずい事態」を「糞が扇風機に当たった」と表現するわけだ     目の前へ置かれたワシントンポスト紙一面の見出しを睨みつけた上司の反応は、言わずと知れた「シット」     ところが、翻訳家はまさか「糞が扇風機に当たりました」と直訳は出来ない。原文のニュアンスを伝えたくて「我々の投げた糞は、たまたま扇風機とぶち当たり・・・・・」と、どう色づけをしようが、日本語で使わない表現はしょせん無理を生じる。もし、私自身、翻訳家の立場だとすれば、あっさり「すっぱ抜かれました」か「すっぱ抜かれました(shit hit the fan)」と原文の注釈なりルビを添えるか、せいぜい「シット・ヒット・ザ・ファン(一大事です)!」ぐらいで妥協してしまうだろう。

 結果、扇風機とぶち当たった糞がそこらじゅうへ飛び散っている情景を隔離された読者は、たいへんヤバそうな感触(臭気?)を肌で感じることなく翻訳を読む。このあたりが、違う言葉を話す、あるいは違う文化を持つ民族間の限界である一方、どう訳せば原作の意図が伝えられるか悩む翻訳家の努力なくして、その溝は広がるばかりだ。優れた外交官しかり、人類の生存が忘却の彼方へ置き去りにされずに済んでいるのは、こうした人々の努力の積み重ねだと信じるからこそ、私のような三文文士が物を書く。と同時に、私の脳裏では日本人の頭へ糞をしようとふんばるアメリカ人の姿と、下から自分の糞をつかんでアメリカ人に食わそうと手を伸ばす日本人の姿が浮かび、ついついどっちが勝つか見守ってしまう自分へ、

 「味噌も糞も一緒にするなよ!!」と、もう1人の自分が囁(ささや)きかけた。

横 井 康 和        


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