映画と新世紀
いよいよ新しい世紀が幕を開け、まず最初にお届けするエッセイは、これからの時代と映画がテーマである。そもそも、音楽や書籍などと比べて歴史は浅く、映画がエンターテイメントとして我々の日常生活へ根を下ろすのは前世紀になってからだ。それも、わずか半世紀前まで映画といえば白黒の無声映画(トーキー)であった。
以来、音が出て色の着いたパターンは現在も変わらない。つまり、その時点でエンターテイメントとして映画の原型が固まったとしたら、それからの半世紀はプロダクションが進歩を遂げた時代だといえよう。プロダクションでも主観によって様々な芸術面はさておき、技術面を見た場合、ここ数年のコンピュータ技術の進歩が、もろ映画製作へ影響を及ぼしているのは「映画とCG」その他でご紹介したとおり明白だ。
コンピュータと限らず、撮影技術や音響技術などを含め、'70年代あたりからハリウッド映画はどんどん新しい技術を呑み込んできた。「ジュラシック・パーク」で恐竜が登場すれば、それだけで満足した観客も、「ジュラシック・パーク2」では恐竜が何をするかに期待する。そこを見越したスティーブン・スピルバーグの答は、あの大がかりな恐竜狩りのシーンだ・・・・・・さあ、今年の夏封切られる「ジュラシック・パーク3」で、いったい彼が何を見せてくれるのやら!?
「ジュラシック・・・」はともかく、見る前の期待感が映画の1つの楽しみである。こればっかりは昔も今も変わらない。かつて小学生であった筆者が「里見八犬伝」の続編を待ちこがれた感触だけは、映画の内容を忘れた今でさえ残っている。見る前から興奮させてくれる映画、見るとますます興奮させてくれる映画、見終わってからも興奮の余韻が残る映画、観客を興奮させてこそ映画の「ザッツ・エンターテイメント」たる所以(ゆえん)だ。
観客の心をどう動かすかは製作側の腕次第であり、もちろん新しい技術を採り入れたからと、そく映画が良くなるわけではない。新しい技術を使う腕こそが問題なのだ。そして、使いこなせる者へは新たな可能性をもたらす強力な武器となる。最新技術を求め、かつ使いこなしながらハリウッドの未来を切り開く先駆者といえば、先のスピルバーグ、ジョージ・ルーカス、ジェームス・キャメロンなどがいい例だろう。
こうして技術の進歩と映画製作の密接な係わりははっりきしているが、もう少し視野を広げると、それは映画そのものの方向性へ1つのヒントを与えてくれる。言い換えれば、製作側に対して観客側への影響だ。どれだけ優れた内容であろうと、もし観客がいなければ映画は成り立たない。また、どれだけ観客が求めようと、もし誰も製作しなければ映画は生まれない。そして、一般大衆(未来の製作者を含む観客側)とて技術の進歩が及ぼす影響は業界人(制作側)と同等に受ける。
ここしばらく最新技術の導入が顕著な映画界と比べ、一般大衆への影響はすぐに反応が現われない。新世紀は、そろそろそれらの兆候が現われてもいい時期だ。しかし、よく見ると兆候は現われ始めている。たとえば、昔ならカメラで撮った家族のスナップショットが、今やビデオ撮影も珍しくなくなった。ビデオだと8ミリのような手間はかからない。誰もが気軽にTVを見て、音楽を聞いて、写真やビデオを撮って、携帯電話を持ち歩く。そこへ一大変化をもたらすのはパソコンとインターネットの普及だ。
かつての塩化ビニール盤やカセットテープがCDとなり、ビデオで映画を見たり記念撮影をするのはBetaやVHSからDVDへ移行しようと、一見メディアが変わったにすぎない。方法論の違いにすぎない。しかし、アナログからデジタルへの移行と捉(とら)えた場合、この変化は大きな意味合いを持つ。前世紀の後半に普及したマルチメディアも、世紀末となって急速なデジタル化が始まった。デジタル化はコンピュータとの一体化を促(うなが)し、それが進めばTVやステレオから空調や通信機器をはじめとする家電の機能はパソコンへ吸収されるか管理されるようになるだろう。加えて、その遠隔操作がインターネットで可能となる。
つい最近までは一般大衆がデジタル・カメラとパソコンを使ってビデオを撮ったり編集したりすることは夢だったのが、もはやごくあたりまえの現実となった。パソコンやインターネットのない世界を想像できない今の子供たちは、その気になれば父親のデジタル・カメラを拝借して撮ったシーンをパソコンで編集することも身近な遊びの1つだ。インターネットの通信速度が早い家庭の子供たちは、自然の成り行きとして複雑な(つまりファイル容量の大きい)ゲームやビデオをダウンロードして遊ぶ。
わずか数年前に画期的な新製品であった75Hzのペンティアムは、今や1.5GHzのペンティアム4が登場して処理能力は200倍スピードを増した。ウィンドウズも95、NTから98、2000へと発展しながら、もっとも新しいMeでフィーチャーされているのがマルチメディアと、数年間で環境は驚くべき変化を遂げている(今年の秋、95系とNT系を一本化したXPも出るばかりか、暮にはその124ビット版まで発売される予定)。そして、このような環境の変化が、今後の映画へ前世紀は予想しなかった可能性を見いだしてくれるかもしれない。これまでの枠を越えて映画製作が、より身近でパーソナルな存在となり、どちらかといえば小説を書く感覚に近づくことは間違いないだろう。
じっさい、今月の「最新情報」でご紹介している「405号線」という短編映画(ショート)が、この傾向を顕著に示している。ビデオそのものは左上の宣伝写真と比べて画像の質がいいとは決して言いがたい。しかし、インターネットというメディアで見せる以上、現在の技術水準へ対応すべくダウンロード時間との妥協点を考慮した結果のはずだ。そして肝心なことは、センスさえあれば個人でもじゅうぶん内容のある映画が作れる時代になったということである。
こうして映画製作の底辺が広がれば広がるほど頂点はさらに高さを増し、その波紋が観客側へ広がってゆく。前世紀はTVやビデオの登場が、むしろ映画産業に拍車をかけたごとく、新世紀はコンピュータ技術の発達が映画へ明るい未来を約束していると考えるのは、ひょっとして私の楽観的な性格ゆえにすぎないのであろうか!?
横 井 康 和