映画と名作
長年、医者とは無縁であった私が、ちょうど10年前に突如として動脈のバイパス手術をしなくてはならなくなった。足が疲れやすくなり、軽い気持ちで検査を受けた結果、その場で入院させられる羽目となったのである。胸のあたりから両足首へ至る動脈を修繕するという10時間近くかかった2回にわたる大手術の後、リハビリを始めた私の脳裏へ浮かんだメロディーは往年のヒット曲「フィーリング」をもじって、
「キッド」
「Healing, nothing but a healing(治る、何がなんでも治るのみ)・・・・・・」
リハビリの間これがテーマソングとして絶えず付きまといながら、退院後はすっかり忘れていたのが、先日あるお見舞いのメールを書いている時にいきなり蘇った。そして、メールで「このメロディー(『フィーリング』の替歌)を口ずさみながら回復を祈っております」と書いた手前、念のため「Heal」を辞書で引いてみると意外な発見をした。
本来「Health」は完全な状態を意味し、そこから健康を指す言葉として使われるようなり、同じく完全な状態へ向かうのが「Heal」の本来の意味で、そこから回復を指すようになったらしい。それまで1度として「Health」と「Heal」が同じ語源だと考えたこともない私は、その点にいたく納得させられたわけだ。また、「健康」の語源が「完全」と知って認識を変えた部分もある。
たとえば、「ヘルシーな映画」が「健全な映画」でなく「完全な映画」を意味するなら、完成度さえ高ければ「ヘルシーなポルノ映画」だって存在するいっぽう、いくら青少年向けの健全な内容でも、もし完成度が低いと映画としては不健全なのだ。そこで、改めて映画の完成度とは何かを考えてみると、けっこう奥が深い。もっとも、本質は無声映画の時代から高度なコンピュータ技術を駆使した現在へ至るまで変わらず、どれだけ観客の心を動かせるかである。幼い頃チャーリー・チャップリンの「キッド(1921年)」に涙ぐんだ記憶が未だ残っているのは、それだけ完成度が高かったということだろう。
ふだん邦画とはあまり縁のない私が、最近、立て続けに2本見た。1本は日本より2年遅れてアメリカで公開された山田洋次監督作「たそがれ清兵衛(2002年)/The Twilight Samurai(2004年)」、もう1本はたまたま友人がDVD持参で訪れた篠田正浩監督作「スパイ・ゾルゲ(2003年)」、どちらも著名なベテラン監督が気合を入れた話題作だ。しかし、両者の完成度を比べれば大きな開きがある。
「たそがれ清兵衛」
前者は明治維新直前が舞台となった武士の物語でありながらハリウッドへ受け入れられ、後者は台詞の多くが英語でありながら、そうではない。ある意味で山本が「たそがれ・・・」で表現しようとした世界は、篠田が「スパイ・・・」で表現しようとした世界と似ている。それらはチャップリンが「キッド」で表現しようとした世界同様、熟練した監督による人間ドラマだ。ところが「スパイ・・・」の完成度は極めて低い。
「スパイ・・・」を見れば製作者側が計算しない些細なことでも、せっかくの映画は台無しとなりかねないシビアーさがよくわかる。19年近く構想を練った篠田のペット・プロジェクトというだけあって、映画の隅々へ彼の気配りを感じるだけ、無神経な脚本(台詞)は理解に苦しむ。もともとドイツ人のソルゲが諜報活動を行いながら、中国やソ連や日本で何語を使っていたのかは知らない。しかし、それが篠田の描くような英語一本槍ではないことだけは確実だ。
「スパイ・ゾルゲ」
ましてロシア語でないと不自然なモスクワの赤軍第4本部内での会話や、ドイツ語でないと不自然な東京のドイツ大使館内での会話までが英語というだけで、仮にあとはどれだけ完成度が高かったとしても、映画全体への篠田の入れ込みは裏目に出る。
「コンドル(1975年)」の1場面(シーン)で、話しながら歩く2人のCIAエージェントが他の歩行者とすれ違う時、言葉を外国語へ切り替える演出は印象深かった。もっと軽い「チャーリーズ・エンジェル(2000年)」ですら、この手を使って効果を上げている。その逆で、何語であれ日本語以外の台詞を英語に吹き替えるような乱暴な演出は、結果として映画全体の完成度を損なう。ドイツ訛やロシア訛の英語で誤魔化すぐらいなら、いっそ全編を(ドイツ訛やロシア訛の)日本語で統一するほうがよっぽどいい。
フェデリコ・フェリーニを見るまでもなく、映画の世界は観客がリアリティーさえ感じるなら現実的か否かは関係ないのである。ゾルゲが中国や日本で英語と外人訛の日本語を話すよう、ソ連ではドイツ訛のロシア語と英語を話さない限り不自然なのだ。当然ながら、説得力さえあればドイツ訛のロシア語が正確である必要はない。逆の見方をすると、われわれ日本人が時としてハリウッド映画に登場する日本へ眉をしかめるのはハリウッドの眼中にないごとく、篠田が描こうとしたのは日本語以外の外国語が英語であろうと説得力を持つ日本だけで通用するバーチャル国際社会かもしれず、そこへ文句を言うのは筋が違う。そうと知りつつ、私は惜しくてならないからこそ、こうして書く。
ちなみに一方の「たそがれ・・・」だが、この映画を見てふと思い浮かんだのは「ラスト・サムライ(2002年)」だ。どちらも幕末から明治維新へ移行する時代背景の侍像を描いた人間ドラマであり、相通じるものがあって不思議はない。ただ、「スパイ・・・」の失敗を思えば、われわれ日本人に違和感を感じさせないだけでも「ラスト・・・」は素晴らしいと思う。とても当時の侍が持ちえたはずのない英語力すら、観客はすんなり受け入れてしまうほど説得力があるのだから。
「ラスト・サムライ」
「ラスト・・・」は、「戦火の勇気(1996年)」や「マーシャル・ロー(1998年)」の監督で知られるエドワード・ズウィックが長年温めてきたペット・プロジェクトときけば完成度の高さはさもあらん・・・・・・同じペット・プロジェクトである「スパイ・ゾルゲ」が、ますます立場を失くす。日本製の「たそがれ・・・」とアメリカ製の「ラスト・・・」へ共通していえるのは、どちらの映画も言葉を大切にしており、その点が「スパイ・・・」では欠けている。
ごく最近までのハリウッド映画に登場する日本といえば、たいがいが「フジヤマ・ゲイシャ」の世界だった。「スパイ・・・」のレベルはそれと変わらない。反面、かつて日本人が笑っていたハリウッド製日本は今や「ラスト・・・」のレベルまで成長した。ともあれ、本来なら「スパイ・・・」のような映画こそ、言葉や文化の違いから生じるギャップが物語の展開で大きな鍵となり、そこの部分を無視したスパイ映画など論外だ。
「ロスト・イン・トランスレーション」
去年の第76回アカデミー監督賞に輝いた「ロスト・イン・トランスレーション(2003年)」などは、そのギャップへ焦点を当てて成功している。監督ばかりでなく脚本も書いたソフィア・コッポラや山田のレベルから脱落してしまった篠田にいま必要なのがコッポラの持つ感性であり、そうすれば「ヒーリング」は可能だと思う。そして、今度こそ「ヘルシーな映画(名作)」を作ってほしい。その時のテーマソングが、
「Healing, nothing but a healing(作る、何がなんでも名作を作る)・・・・・・」
横 井 康 和