映画と駄作
前回のテーマ「名作」の反対は「駄作」だが、では何を称して駄作というのだろう? 名作を狙った篠田正浩監督の思惑が見事に外れた「スパイ・ゾルゲ(2003年)」のような作品を駄作と呼ぶのは簡単だ。しかし、最初から名作と無縁の製作意図で完成した映画が、映画史へ予期せぬインパクトを残すこともある。
「フレッシュ・ゴードン」
たとえば、「フラッシュ・ゴードン(1936年)」をもじった「フレッシュ・ゴードン(1974年)」は、製作当時こそFBIの監査が入るほどのトラブル続きで、ギャラを踏み倒されたスタッフさえ少なくない。しかし、どさくさ紛れの完成とはいえ、たんなるポルノチックなパロディー映画の枠を超えた不思議な存在感があり、1989年には続編まで製作されている。作品の内容や質こそ違え、日本の「ゴジラ(1954年)」しかりだろう。こういった「B級映画」と呼ばれるジャンルの名作が微妙な存在なのだ。
B級である以上、ステレオ・タイプ的な発想なら駄作の類を指す。そうすると「フレッシュ・・・」や「ゴジラ」は「駄作の名作」である・・・・・・いや、「名作の駄作」か?・・・・・・どちらにせよ、いったい駄作なのか名作なのか、どうもはっきりしない。ただ、ハりウッドを語る上で欠かせないのが、こうした駄作でありながら且つ名作である映画の存在だろう。
今でこそSFX(特撮)の分野ではハリウッドの第一人者といわれるグレゴリー・ジーンが、「フレッシュ・・・」でデビューしたのも決して偶然ではないような気がする。大手スタジオなら、まったく未経験のアルバイト学生であったジーンへ映画の完成を左右するほど重要なミニチュア・デザインを一任したとは考えられず、したがって伝説的な「チンポコ型宇宙船」も誕生しなかったはずだ。そのあたりがB級映画のプロダクションならではといえる。
もちろん、製作予算が少ないからB級であって、駄作を意味するわけではない。B級が駄作を指すと書いたのは、低予算の結果、一般論としてほとんどが駄作であるからだ。そう考えると、B級映画の名作はメジャー・スタジオの名作より可能性を秘めて当然かもしれない。「ゴジラ」だって悪くいえば「キングコング」のコピーに過ぎないからこそ、製作スタッフがアイデアを振り絞り、そこから現在のへ至るオリジナリティーは生まれた。
ハリウッドと駄作の意義を考えてみると、もう1つ興味深いのが「ラジー賞」の略称で知られる「ゴールデン・ラズベリー賞」だ。日本の場合そこまでの知名度はないが、アカデミー賞をパロディって昨年度最悪の映画や俳優を選ぶハリウッドでは毎年恒例の式典である。今年が第25回でノミネートはオスカー女優ハル・ベリー主演作「キャットウーマン」が最多7部門、オリバー・ストーン監督作「アレキサンダー」が6部門で評価をほぼ二分した。
「華氏911」
最悪作品賞をはじめ最悪監督賞、最悪男優女優賞など一通りの主要部門で候補に上がったそれら2作以外では、米ブッシュ政権を真正面から批判したマイケル・ムーア監督作「華氏911」と、黒人のFBI捜査官2人が白人娘(ホワイト・チックス)に変装して大騒動を巻き起こすコメディー「ホワイト・チックス」がそれぞれ5部門でタイの勝負となり、「華氏911」からはブッシュ大統領が最悪男優賞、ラムズフェルド国防長官が最悪助演男優賞、次期国務長官に就任予定のライス大統領補佐官が最悪助演女優賞へそれぞれノミネートされている。
今年同様、毎年の候補に上がるのは駄作という点で納得がゆく映画ばかりだ。真剣な選択だけなら、ちょっと冥(くら)すぎるところを、ラジー賞の場合はパロディー精神が基盤となった真剣さだから前向きで明るい。今年も、その真価はブッシュ大統領の最悪男優賞ノミネートへ如何なく発揮されている。そもそも前向きな姿勢で真面目に駄作を選ぶ式典がオスカーと並ぶ年中行事など、ハリウッド以外のどこで考えられよう!?
パロディー精神は、いわばハリウッドの余裕を示すバロメーターである。オスカー同様「日本ゴールデン・ラズベリー賞」があったとしたら、先の「スパイ・ゾルゲ」(そして去年のビートたけし主演作「血と骨」)などは最悪作品賞に輝いていることだろう。そうすれば、DVDの発売時も「20世紀最大のスパイ事件、その真相を壮大なスケールで描いた歴史超大作、遂にDVD化!」と白々しい嘘の宣伝文句でなく、「2003年度日本ラジー最駄作賞ウイナー、遂にDVD化!」だと美しい。ただ、冗談でなく、もしここまでのパロディー精神があれば、映画は篠田の思惑どおり名作となっていたはずだ。
日本語を除いて本来ドイツ語やロシア語であるはずの台詞までがすべて英語という脚本は、幕末から比較的最近までの日本人が、欧米の人間や言葉を区別なく外国人や外国語と称した感性と変わらず、その感性で歴史超大作を製作すること自体、パロディー以外の何者でもない。DVD発売時の真面目な宣伝文句しかりで、ラジー賞へノミネートされる基準はそういったパロディー精神の欠如から生まれた駄作という見方も出来る。
「キャトウーマン」
つまり、メジャー・スタジオが力を入れた大作であればあるほど、的外れの場合はよりいっそうの駄作となり、「スパイ・ゾルゲ」やじっさい今年のラジー賞にノミネートされた「アレキサンダー」や「キャットウーマン」などが好例だ。そこへスポットを当てることで、ラジー賞はいわばハリウッド業界で品質管理のフィルター的な役目を果たす。「キャットウーマン」や「アレキサンダー」がノミネートされた教訓を製作スタジオは次の戦略に活かせるいっぽう、ラジー賞のない日本で「スパイ・ゾルゲ」が失敗した自覚さえ、はたして製作スタジオは持っているのかどうかさえ疑わしい。
もちろん、ラジー賞へノミネートされる駄作にも例外があり、「華氏911」などパロディー精神の欠如とはまったく正反対で、発想からしてパロディー精神の固まりだ。そういった例外になるとノミネートの意味合いが、一般とはちょっと違う。パロディー精神のそのまた先を行くパロディー精神だから成功し、これまでの常識を覆してドキュメント作がハリウッドで商売になることを証明できた。先ほど「スパイ・ゾルゲ」の宣伝文句が「2003年度日本ラジー最駄作賞ウイナー、遂にDVD化!」だと美しく、そこまでのパロディー精神があれば名作となっていたはずだと書いたのは、そんな映画の意味だ。
こう考えてみると、立派な駄作を作るのは名作を作るのと同じぐらい難しいことがわかる。立派な駄作を言い換えれば成功した駄作であり、駄作だから必ずしも失敗とは限らない。成功や失敗と名作や駄作の尺度が違うため、その逆で失敗した名作だってあるわけだ。同じく成功か失敗か、あるいは名作か駄作か判断する基準も人や状況によって違う。たとえば、作家の立場でいうと自分の本が名作として成功することより売れて成功することを目指す。読者あっての本であり、売れさえすれば駄作と呼ばれようが構わない
私のような三文文士はさておき、アメリカでもトップクラスのベストセラー作家へ目を向けると、1973年の「メディテレニアン・ケーパー」で文壇デビューを果たしたクライブ・カッスラーのダーク・ビット・シリーズ3作目「タイタニックを引き揚げろ(1976年)」が早くも映画化されながら、来月(4月)の全米公開を控えた「サハラ 死の砂漠を脱出せよ」までダーク・ピットはいっさい銀幕(スクリーン)に登場しなかった。その間、シリーズ18作がことごとくベストセラーとなっている現状を思えば激しい落差である。
「レイズ・ザ・
タイタニック」一番の原因は映画化された「レイズ・ザ・タイタニック(1980年)」が囲りの期待ほど成功していないことで、この点は明白だ。だが、ピットを演じたリチャード・ジョーダンも、名作よりは駄作に近い映画の仕上がりも、興行面での失敗も、それだけで映画化が20年以上ストップするほどひどくはない。しかし、客観的な判断がどうあれ、カッスラーへは完全な駄作であり、完全な失敗であった。
たとえ興行成績がもっとひどかろうと、それ以外の面で成功、つまりカッスラーのイメージを損なわない映画さえ仕上がっていれば、その後の状況は違ったはずだ。本来ハリウッドのメジャー・スタジオがピット・シリーズほど成功している小説に、そして007シリーズとインディー・ジョーンズ・シリーズの魅力を兼ね備えたヒーロー像に涎を垂らさないわけはない。しかし、最初の映画化を駄作と判断した結果、カッスラーが映画化権を手放さなくなったとしても、彼の気持ちはじゅうぶん理解できる。何事も自分の判断が肝心であり、世間は名作と判断しようが自分にとって駄作は駄作ということだ。
若き日のウォーレン・ジヴォンが、いみじくも「人生は芸術の模倣」と言ったとおり、自分の人生が名作で終わるか駄作で終わるかは、やはり自らの決断次第である。自覚がないだけで、我々の日常生活は決断の繰り返しであり、その積み重ねが人生に他ならない。朝起きた瞬間から、身を起こそうと決断し、トイレへ行こうと決断し、歯を磨いて顔を洗おうと決断し、朝御飯を食べようと決断し・・・・・・無意識のうち些細な決断を下しつつ暮らしている。
日常的な範囲の行為であるうちは、当然ながら意識があっては生活に支障をきたす。目が覚めたら、起き上がろうと決断するため考える。なぜ起き上がるかその先まで考慮し、自分はここで起き上がるべきなのだと納得できてから、ようやく決断を・・・・・・と、こんな調子で朝御飯を食べ終わるまで思考能力が持てばいいほうだ。つまり、条件反射的な決断なくして生存はおぼつかない。
ただ、考えない習慣がついてしまうと判断力は鈍り、時として肝心な局面で流されてしまう。名作であったはずの自分の人生が、人から駄作といわれて亀裂を生じるのはそんな時だ。そして、そんな時ほど自分へどこまで自信を持つかが今後の人生の分かれ道となり、心の亀裂を閉じるも広げるも自分次第だということを忘れやすい。忘れないためには、日ごろのちょっとした心構えが大切で、名作や立派な駄作とはそのヒントを与えてくれる作品だと思う。
「サハラ 死の
砂漠を脱出せよ」典型がカッスラーの本で、あそこまで売れるのは、まず読者を前向きな気持ちにさせてくれる。状況がどれだけ絶望的であろうと、主人公のピットや(もう1つのシリーズである)カート・オースティンは諦めることを知らない。毎回そんな状況からヒーローが活路を見出したり、あくまでもヒーローらしいヒーローやヒロインらしいヒロインの描き方は現実離れしている上、お決まりのパターンなのだが、それすらカッスラーの場合は拘りを感じさせるのだ。
ちなみに、「サハラ・・・」の予告編を見る限り、美味しいところを並べた断片的なシーンは、それぞれ原作のポイントを忠実に映像化しているようだ。また、マシュー・マッコナヒー演じるピットもジョーダンより数段いい。これが興行面を含めて成功すれば、あとはカスラー自らが駄作と判断しない限り引き続き映画のシリーズ化は間違いないだろう。そうなると本人の考え方で・・・・・・名作か、駄作か、それが問題である!
横 井 康 和