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「マダム・ウォン」にて
血液型はAB、いわゆる分裂タイプだ。同志社高校在学中、京都東山にある料理旅館「力弥」の娘2人とバンド「ファニー・カンパニー」を結成、コロンビア・デノン・レーベルと契約する。これがきっかけで、プロ・ミュージシャンとして活動を開始。

同志社大学在学中は弁護士になるべく音楽活動を中止するが、1971年、桑名正博と出会い、再度「ファニー・カンパニー」結成へ至る。その後、1ケ月間のロサンゼルス滞在を経て、ワーナー・パイオニアと契約、音楽活動に専念するため大学は中退。

1972年、桑名と「ファニー・カンパニー」のデビュー・アルバムを発表して以来、1976年4月にロサンゼルスへ移住するまで、東京を中心とした音楽活動を続けてゆく。「ファニー・カンパニー」に続いて、土屋昌巳、斉藤ノブ等と新たなバンド「ステージ・フライト」を結成したり、スタジオ・セッションの他、下田逸朗、南正人、リリィー等のバンドへ参加。

ロサンゼルスに移住して以降は、初期の「モーテルズ」や「バーズ」の再編成に係わる他、ジャン・リュック・ポンティー他とのスタジオ・セッションを経て、自分自身のバンド「パルス」を結成。そんな音楽活動と平行して、レコーディングやTV撮影のコーディネイトも始める。そして1980年5月、アン・ルイスと桑名の結婚式に出席するため帰国したところ、ヴィザの問題が起こって数日の滞在予定が9ケ月に延びてしまう。その間、高尾守(キティー・レコード)のデビューをプロデュースしたり、桑名のツアーへゲスト参加。

1981年3月、世界一周後ロサンゼルスへ戻り、プロダクション業務を中心としたカリフォルニア州現地法人を設立、同時に音楽プロデューサーで米永住権を申請する。また、「ウィスキー・ア・ゴー・ゴー」、「マダム・ウォン」他で定期的なライブ活動を続けながら、「A&M」や「ベイビー・オー」等のスタジオを使って、「パルス」及び「ソロ・アルバム」のレコード原盤制作を開始。法人設立のパートナーがデザイナーであった関係上、グラフィック・デザインの仕事を始めたのもこの時期だ。
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「ウイスキー・ア・ゴー・ゴー」にて

1982年、処女短編小説「天使達の街(City of Angeles)」が書く前に永田出版へ売れるというハプニングがあり、それをきっかけに、音楽、プロデュースと平行して執筆活動を始める。一方、現地法人はプロダクション業務を拡張して貿易業務へも携わるようになった結果、ヨーロッパとの行き来が続く。

1988年、執筆に重点を置くため業務を縮小、1989年からはオフィスも畳み、執筆ただ一筋の生活をしばらく続けた後、1990年から再びプロダクション業務その他と係わり合う。1991年にはジョー山中の「I Wanna Hold You Right」でミュージック・ビデオ監督デビュー(日本語バージョンは作詞も担当)。

I Wanna Hold You Right」のミュージック・ビデオ: [英語バージョン] [日本語バージョン]
シンセサイザーやドラム・マシ−ンのプログラムからグラフィックやワープロにいたるまで、長年コンピュータを人生の伴侶としてきた。その結果、1995年12月、友人のハリウッド映画プロデューサー、マックス桐島と映画情報のウェブサイトを開設する際、制作を担当。以来、執筆ともども「ウェブマスター」の道を歩む。

映画情報サイト「ハリウッド最前線」がきっかけとなり、日本人作家として、またハリウッド最前線を運営する出版社の社長として、それぞれ米マイクロソフト社と日本語コンテンツのライセンス契約を結ぶなど幅広く活動した後、2013年4月よりプロダクションその他の業務から引退、それ以降は執筆等の作家活動へ専念。

* ミュージック・ビデオのフォーマットはQuickTimeですので、映画の予告編同様、プラグインがインストールされていない場合はご覧いただけません。また、ファイル容量が約40メガバイトあるため、インターネットへの接続スピードによっては表示されるまでしばらく時間がかかることをご了承ください。



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