宝さがし



 わが製作会社へ持ち込まれる脚本は、平均して週10冊ぐらいである。その中から“スクリプト・リーダー(本読み係)”と呼ばれる脚本審査の専門家が選りすぐったものを、週末や時間のある時に読むのは僕の仕事であり、個人的な部分でも楽しめる一時(ひととき)なのだ。それが、ここしばらくパッとしない。

 僕の気のせいなのか、最近は20頁も読み進めば飽きてしまうもの、つまり一番盛り上がるべきところで気抜けする脚本が多く、思わず息を呑むようなストーリーと巡り会う機会は年々少なくなってきた。有り余る財力に物を言わせ、ヒットメーカーへ「スペック・スクリプト(脚本のプロットのみ)」を発注できる大手スタジオと違い、われわれ独立プロダクションの場合、限度がある。限られたリソースの中から、商業的にも芸術的にも創造意欲を掻き立てられるような「珠玉の宝石」を探し出すことを要求されるのだ。それなりの苦労もある反面、このプロセスは宝探しのような興奮がひしめく。宝の隠し場所はといえば、脚本家のエージェント、共同製作を望む他の製作会社、監督志望の売れっ子俳優が書いたもの、時にはランチをとった店のウェイターやウェイトレスからと、千差万別である。

 興味のある題材とインパクトの強い無名俳優を起用するというのが、独立プロの「バイブル」的志向であり、大規模なセットや大スターへ経費をつぎこむスタジオ作品の何十分の一という予算で勝負をすることは可能だ。今年のアカデミー賞受賞作“イングリッシュ・ペイシェント”はじめ、ノミネートされた“スリング・ブレイド"、"秘密と嘘"、"シャイン"、"ブレーキング・ザ・ウェイブ”等が、その好例といえよう。あるいは、ようやくハリウッドへそういう時代が訪れたのかもしれない。こうなると、自分の貧しい探求心やネットワーキング(人脈)不足を棚に上げ、脚本の低質化を嘆いている場合ではなく、気合いを入れ直す必要がありそうだ。

 ハリウッド映画のプロデュース稼業を始めて6年、これまで、しこしこと数本の映画を作ってきた。いま振り返れば、投資家や配給会社の思惑を考慮し、商業スタンスが先走った傾向はある。しかし、芸術性ばかりを重視して評論家の絶賛を浴びようと、興業成績やビデオの売れ行きが伸びない限りプロデューサー失格と見なされてしまう。とはいえ、数字ばかりを追っ駆け、俗にTits(オッパイ)とAsses(お尻)を略して“T&A”と呼ばれる「セックスもの」や、“Shoot 'em Up(殺っちまえ)”と呼ばれる「撃ち合いもの」ばかりだと空しい。

 日頃、僕が心がけてきたのは、そのハッピー・ミディアム(釣合のとれた状態)であり、人々の心を打つような、観客の人生が変わるような、それでいて事業としても成功するような作品の創作であった。この意欲は、最近とみに膨らんできている。というのも、いろんな本を読んだり様々な体験を積み重ねるうち、映画製作自体への認識が「1つの宇宙」、つまりエネルギーの場を創造する1つの方法論として捉えるようになってきたからだ。

 「エネルギーの場」といえば、こういう話を思い出す。それは日本列島南端の島で棲息する猿の集団の話だ。ある日、中の1匹が海水でイモを洗うと美味しいことを発見する。この行為は次第に集団全体へと広がってゆく。ただし、ごく限られた地域的な出来事であった。そして数ヶ月後、日本列島北端の猿が、突如として同じ行為を始める・・・・・・「塩水でイモを洗う」という行為は「美味しさ」へ結びつき、前向きなエネルギーの場を形成した結果、距離的にも物理的にも情報伝達が不可能なはずの別の集団へ伝わったのだと思う。

 エネルギーの場、あるいは1つの宇宙がプラス方向に作用する以上、逆の場合はあって当然だ。犯罪がテーマのTV番組を見て育つティーンや、絶えず両親から文句ばかり聞かされる子供は、どうしても「マイナス・エネルギー」の影響が避けられない。しかし、逆境をプラス方向へ活かせば、それは「プラス・エネルギー」に転換できる。つきつめれば、心の持ちよう次第と言えるだろう。「アップ・リフティング(感動的)」な光景や、日常の些細なことへ自分が生きている喜びを感じられた瞬間、人間の力強い生命力は「生き甲斐」という計り知れないエネルギー源となるのだ。

 気合いも、前向きな生き方も、積極性も、捉え方がどうあれ、われわれ1人1人の心へ作用する「プラス・エネルギー」こそ、地球を回転させ、月を動かす宇宙的なエネルギーと同質のものだと僕は考えている。他人(ひと)と対応したり、決断を下したり、何か新しく試みる時など、これから自分が為す行動の中に「1つの宇宙」の存在を意識したなら、「地上の楽園」へ一歩近づけそうだ。そういう意味でも、世界中の人々に2時間前後の「宇宙」を通じて何らかの影響を与え得る映画は、想像以上のインパクトがあり、最近は作る側の責任を、よりいっそう感じるようになった。映画館を出る時やビデオを見終わった瞬間、ふと、

 「そうだ、あの人に連絡してみようかな!」

 と、今まで疎遠だった昔の友達を思い出す。あるいは、亀裂のあった親兄弟と会いたくなるような映画が作れたら最高だ。映画製作を含めたエンターテイメントとは、どうしても教育的な側面を持つ。たとえば、

 「人生って、いいもんだなぁ!」

 みたいな、「生き甲斐」を見つける案内人役としての責任があると思う。「あ〜、スッキリした!」という単純な満足感を与えられるだけでもいい。とにかく、見る前と後では、何か人生が違って感じられる映画。それは、ほんの少し視点を変えただけで、どれだけ人生がエキサイティングなものに変貌するかということだ。あるいは、許せなかった人間を許したくなるという、小さい宇宙でもいいから見る人の心へダイナミックな影響を及ぼす映画を作っていきたいと願う。

画像による目次はここをクリックして下さい  そんな気持ちで「宝(脚本)さがし」に精をだす、つい先日のことだ。知人の撮影監督が日本で撮った“秋桜(コスモス)”という映画を見る機会(チャンス)があった。業界のメジャーと比べ物にならない低予算で製作した独立プロ作品ながら、その出来映えは素晴らしく、どちらかといえば邦画を好まない僕が、珍しく感動させられた秀作なのである。

 親の海外赴任先で交通事故に遭い、父を亡くした上、輸血ミスでエイズ感染した主人公の女子高校生は、残された母と2人で故郷の福島へ帰ってゆく。日本の片田舎におけるエイズ教育の欠如、それゆえ地元民が抱く恐怖心、級友たちは白い目を向ける。そんな彼女を、勇気ある幼なじみの女学生と理解ある青年教師が応援しながら、見る者へ「自分の死に方、死に場所は自分で選ぶ!」という強烈なメッセージを訴えかける力作だ。死と直面した恐怖で眠れぬ夜が続きながらも、ひどい仕打ちをした人々を恨むことなく、最後まで明るく生き抜こうとする17歳の少女の意志は、痛いほど突き刺さってくる。言葉や環境、文化を超越した、まさしくプラス・エネルギーが膨らむ「1つの宇宙」を秘めた映画であった。

 これまで日本映画というと、微妙な日本文化の影響を受けて育った者しか理解できない感性描写が多く、海外への進出を阻む大きな障害であったと僕は感じている。しかし、“秋桜(コシモス)”のような日本映画でありながら、登場人物、時代背景、舞台設定などを巧く西洋化し、ハリウッド映画として逆輸入が可能な作品も今後は増えてゆくだろう。プラス・エネルギーという点で無に等しく、またヒットこそしなかった、黒沢明の“用心棒”をリメイクした“ラストマン・スタンディング”などが、その兆候かもしれない。

 そうなるため、本当の意味での国際感覚を肌で感じられる若い世代(「バイリンガル」というよりも「バイカルチュラル」)の脚本家や監督が、世界へ通用するビジョンでもっとハリウッドに乗り込んで来て欲しい。ジョン・ウー("ブロークン・アロー")、リンゴー・ラム("マキシマム・リスク")、ツイ・ハーク("ダブル・チーム")などの香港勢をはじめ、“ダイハード2”や“クリフハンガー”を監督したノルウェー出身のレニー・ハーレン、また“シャイン”の若きオーストラリア人監督スコット・ヒックス等の活躍ぶりを目の当たりにすると、ますますそう感じる。彼らはみんな、自分が外国人であるハンディーを武器としてハリウッドへ進出してきた連中だ。

 分野は異なるが、3年前、勇気を奮い起こして自分の夢に挑戦した野茂選手の「プラス・エネルギー」は、その後、鈴木、長谷川、前田、また、わがまま放題の伊良部さえもがメジャー進出へ夢を託すきっかけとなった。最初に「イモを洗う猿」を具現した野茂選手の作りあげた宇宙は、野球という枠を越えて多くの人々へ影響をおよぼし、その貢献度たるや1つの偉業ですらある。言語のハンディーを背い、食べ物から気候、移動や管理システムの違いを克服し、異国で家族と別居生活を送る逆境を乗り越えたところが、ようやく振り出し。あのポーカーフェイスの奥では、果たして自分の力がメジャーリーグで通用するのか? 言葉も文化も違う自己主張の強い25人のチームメーと巧くやっていけるのだろうか?・・・・・・こんな切実な想いが、きっと渦巻いていたに違いない。彼の「宇宙」を作り上げたエネルギーは、メジャー希望の長谷川夫妻がオフ・シーズンをアメリカで過ごしたり、真剣に英会話と取り組んだり、新たなエネルギーへと連鎖反応を起こし、それはもっともっと広がってゆくだろう。

 日本人としての感性を活かしつつ、世界中の人間が共鳴できる創作。そんな素晴らしい「宇宙」をめざし、僕は“秋桜(コスモス)”をハリウッド映画に仕立てようと考えている。エイズが「ホモの病気」と信じられていた'80年代初期、舞台はアメリカの片田舎だ。かつてロサンゼルスへ家族ともども移住した少年が、やはりのエイズを患い父を亡くした末、母と帰郷するドラマ。日本とはまた違った、アメリカ特有の明るさの中での陰湿さを背景に、学園生活を送る少年の生き様を描きたい。少年との再会がきっかけとなって不良から足を洗い、'90年代の現在は地元高校の教師を務める幼なじみが、後輩たちへ卒業式に語る思い出話の形式で、主人公の残した贈り物としての「宇宙」を広げられれば本望なのだ。

 “秋桜(コスモス)”との巡り会いは、自分のビジョンに合う企画との出会いを待つだけの僕へ、今まで見えなかった部分に光をあてて探検する勇気を与えてくれた。人々の心へ強烈なプラス・エネルギーを提供し得る“映画”というメディアに携わる恵まれた環境を活かし、ハリウッド映画化が成功するしないはともあれ、見終わってなんとなくいい気分を味わってもらえるような作品を作り上げるつもりでいる。僕の心へ「やる気」というプラス・エネルギーの置きみやげを残してくれた“秋桜(コシモス)"、この光り輝く宝石に感謝の念は尽きない。かの名作“シンドラーズ・リスト”後半の1場面、戦争も終結し、戦犯となって逃亡を余儀なくされたオスカー・シンドラーへ、彼に救われた多くのユダヤ人労働者が金歯まで溶かして鋳造した指輪をプレゼントする際、ベン・キングズリー("ガンジー")演じる会計士は言う。

 “You save one man, you save the world entire.(1人を救うということで、あなたは全世界を救いました)”

 そこに、僕のめざす計り知れないエネルギーの「宇宙」を垣間見た気がする!



(1997年4月1日)


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