映画と音楽
中学の学園祭でフォークバンドを結成して以来、後にまだ高校生の桑名正博と出会いロックバンドを組むまで、私の活動の場はもっぱらフォークシーンでありながら、その動機が少々変わっていた。自分で歌わない私はギターやベースを弾くことが常にテーマとなり、望むことは必ずしも出来ることと一致しない。したがって、ジャズ・ギターリストを夢見る高校生が、腕と相談した結果、フォークソングを演っていたというわけである。
当時、コロンビアのデノン・レーベルと契約したバンド“ファニーカンパニー”は3人編成で、私が12弦ギターを弾き、ボーカルは声楽課を出たもともとジャズシンガー志望の女性、そして彼女の妹がコーラスと生ベース担当だ。編成からしてまともではなく、私が書いた一部のオリジナルを除くレパートリーは、多くが“セルジオ・メンデスとブラジル'66”といえば、どれだけユニーク(変態的?)なフォークバンドであったか想像いただけよう(ちなみに、バンド名の由来は日本で放映されていたアメリカのTV漫画)。
“華麗なる賭”
その頃、ステージでもっぱら12弦ギターを弾く私も、家へ帰ると6弦ギターでウェス・モンゴメリーのフレーズと格闘していた。またある時は、ジャニス・ジョプリンの“サマータイム”のイントロをコピーする一方、聞く音楽たるやジャズやフォークソングばかりかベルリオーズの“幻想協奏曲”などクラシックに及ぶ無節操ぶりであった。
同じ時期、モンゴメリーはじめCTIレーベル系列のサウンドを継ぐジャズ・ギターリストとして注目されていたのが、まだ“マスカレード”の大ヒットでポップス界へ名乗りをあげる前のジョージ・ベンソンだ。当時のアルバムで私がしょっちゅう聞いたり、時には弾こうと試みた曲“風のささやき”は、そもそもかのミシェル・ルグランが映画のサウンドトラックとして書いたヒット曲である。
“トーマス・クラウン・
アフェアー”
ルグランのオリジナルは流れるようなストリング・サウンドで、スティーブ・マックィーン演じる主人公の操るグライダーが空を滑るシーンを見事印象づけた。“風のささやき”なくして、あの名場面は考えられない。また、同じ曲がベンソンの手にかかれば趣(おもむき)はごろっと異なり、歯切れのいい軽快なリズムがギターの奏でるメロディーを心地よく走らせる。こうして、より広がったルグランの感性は、頭の中で映画そのものの印象へフィードバックされてゆく。
そんなわけで、リメイク版“華麗なる賭”が企画された時、まず気になったのは“風のささやき”がどうなるかだ。主演のレネ・ルッソもピアース・ブロズナンも私の好きな俳優で興味はあったが、それだけだと映画館まで足を運んだかどうかわからない。ともかく、インサイダー情報に詳しいマックスへリメイク版のことを聞き、しばらく経ってから“風のささやき”はスティングのアレンジで再登場するという電子メールが届いた。
スティングと聞いて独りほくそ笑んだ私は、去年の夏、封切られて間もなく“トーマス・クラウン・アフェアー"(リメイク版“華麗なる賭")を見にいったわけだが、その内容は8月16日の「お先に失礼!」でも紹介しているので省く。ただ、内容がどうあれ、こうしてリメイク版を見に行かせるだけのパワーを持ったオリジナル・サウンドトラックの貢献度は計り知れない。
まだ小学生のころ見た映画の中で未だに印象が残っている筆頭は“ボーイハント”と“赤と青のブルース”だ。内容もさることながら、主演のコニー・フランシスやマリー・ラフォレが歌うテーマソングは、幼い私の脳裏へしっかり焼き付いた。そして、40年近い歳月を経て、まだこれらのレコードを時たま聴いている。
“ボーイハント”
「ホェアー・ザ・ボーイズ・アー〜」と切なく歌いあげるフランシスに、劇中、失恋の想いを抱いた彼女が車道中央を放心状態で歩くシーンを思い出し、甘ったるい声で「サントロペ〜、サントロペ〜」と歌いかけるラフォレに、シャンソン歌手から女優デビューを飾ったばかりの彼女の初々しさを思い出す。これらのサウンドトラック抜きでは、映画そのものの存在感さえ影が薄くなるほどだ。
効果的なサウンドトラックといえば、スタンリー・キューブリックの“2001年宇宙の旅”や“時計じかけのオレンジ”もいい例だろう。宇宙空間の俯瞰(ふかん)シーンを、あの「ダダダ〜ン」という音楽がどれだけ盛り上げていることか! また、シンセサイザーを駆使したベートーベンの「第九」、あるいは強姦シーンで流れる「雨に唄えば」のメロディーなくして“時計・・・”の不思議な世界は考えられない。
“明日に向かって撃て”も音楽が良かった。コンラッド・ホールの卓越したカメラと相まってバート・バカラックの名曲“レイン・ドロップス・フォーリン・オン・マイ・ヘッド”は“風の・・・”同様、主人公3人が自転車に乗って戯れるシーンを見事印象づけ、その長閑(のどか)なシーンは銀行強盗や銃撃戦と見事なコントラストを織りなしている。
“明日に向かって撃て”
ちなみに、小説を書いていて映画が羨ましくなるのは、こういうシーンだ。映像と音楽が描き出す情景を文章で表わせたとしても、情景を見て感じるものは文章から直接伝わってこない。小説の場合、読者の想像力が決め手となる。“華麗なる・・・”のグライダー・シーンや“明日に・・・”の自転車シーンは、やはり映画ならではの醍醐味だと思う。
話を戻し、“明日に・・・”から30年後の去年(1999年)、“ワイルド・ワイルド・ウェスト”が封切られた。時代を反映してか、同じ西部劇とはいえ、あらゆる面で異質だ。興業成績しかり、前者がアメリカン・ニュー・シネマを世界へ知らしめるほどの成功を収めたのに対し、後者は1億ドル以上の予算をつぎ込みながら、かろうじて売上が過去10年間('90年代)のトップ100へ入るという悲惨な結果で終わった。しかし、興業成績はどうあれ、主演のウィル・スミスによる主題曲が“ワイルド・・・”へ果たした貢献度なら大成功である。
去年の夏、FMラジオのポップ・ステーションを聴いていると、“ワイルド・・・”はしつこいぐらいの頻度でかかっていた。完全に曲が独り立ちした感じなのだ。そこで、それ以前、これほどかかったサウンドトラックは何があったか考えてみると、最近の曲は何も思い浮かばない。また、じっさい映画を見て意外だったのが、その時点ですっかり馴染んでいたテーマソングはいくら待っても流れず、ようやく登場するのが最後の字幕になってからであった。
“ワイルド・ワイルド・
ウェスト”
こうしたサウンドトラックは「シリーズ物」だと、より効果を増す。私がアルバート・ブロッコリーのボンド・シリーズ第1弾“007は殺しの番号”を見たのは中学校へ入って間もなくだ。以来四半世紀を経て、ライフルの銃身からボンドを捉えた冒頭のシーンと並び、オリジナル・サウンドトラックがトレードマークとして定着している。今や「ダンダダダッダ〜ダダダ、ダンダダダッダ〜ダダダ」と1音上がって1音下がり、1音半上がって半音下がるメロディーを聴けば、条件反射的にタキシード姿のボンドを思い浮かべる年齢層は相当広がっているに違いない。
テーマソングが同じでも、当然ながら007シリーズの内容はすっかり変わった。これまで7人の役者がボンドを演じ、ボンドガールに至っては何人ぐらい登場したのだろう! 1作ごとの主題曲も、その時代時代を反映し、アーティストの選択へ趣向を凝らしているのがわかる。第2弾“ロシアより愛をこめて”ではマット・モンロー、第3弾“ゴールドフィンガー”ではシャーリー・バッシーの歌う同名の主題曲がヒットし、以後ポール・マッカトニーやティナ・ターナーはじめ、起用されたアーティストは多い。ただ、曲そのもの、つまり歌詞とメロディーの印象が強く残っているのは、なんといっても“ロシア・・・”と“ゴールド・・・”だ。
'60年代といえば“ビートルズ”や“ローリングストーンズ”などのイギリス勢が、それまでの既成概念を打ち破り世界の音楽シーンを塗り替えた。この波は映画音楽へ及び、加えてシンセサイザーに代表されるハード面での技術的な進歩が、新しい時代のサウンドトラックを生みだす。第4弾“サンダーボール作戦”あたりからは、歌詞とメロディーばかりでなくリズムが重視されはじめ、曲そのものは印象が薄らいでしまったようだ。そうした時代の流れは“明日に・・・”と30年後の“ワイルド・・・"、これら2本の西部劇のサウンドトラックを比べればよく見える。
“ロシアより愛をこめて”
振り返ってみると、先の“セルジオ・メンデス”やクリード・テイラーのCTIレーベルはA&Mレコードの目玉商品であった。それとまったく関係なく、一頃A&Mスタジオが私のホームベースとなったり、A&M自体、元チャーリー・チャップリンの映画スタジオが母胎となって誕生したレコード会社だ。こうして「自分」と「音楽」と「映画」の係わりへ、なんとなく因縁めいたものを感じる一方、さらに容赦なく時代は流れてゆく。
私が現役のミュージシャンから遠去かって久しいばかりか、「アルパート」と「モス」の頭文字を取ったA&Mは売却され、もはや名ばかりだ。しかし、次から次へと新しい波が押し寄せてくると、まだまだ過去を懐かしんではいられない・・・・・・私がレコーディング中、トランペット片手に空いている隣のスタジオへふらりと練習に来たハーブ・アルパートは、今どうしているんだろう?・・・・・・そういや、彼が結婚した相手は“セルジオ・メンデスとブラジル'66”のボーカルだっけ!・・・・・・“赤狩り”の犠牲となったチャップリンがアメリカを捨て、ヨーロッパへ移った晩年は何を考えていたんだろう?・・・・・・いつか時間の余裕ができたら、きっと想いは尽きないに違いない。
横 井 康 和