ルート66 (その1)
ずいぶん昔の話だが、TV撮影の仕事を請け負った私は、日本から来たクルー一行を引き連れ、シカゴから旧66号線をロサンゼルスまで旅したことがある。およそ半月間の旅だ。その時点では、まさかこれが以前ご紹介した「空中四万哩」に次ぐドサクサ旅行となるなど予想できるわけはない。
ルート66
かつて、現役のミュージシャンであった私が音楽と平行してプロダクション業務を始めるきっかけとなったのは、ロサンゼルスへ引っ越す前に音楽の仕事で知り合ったTV局やプロダクションの連中がロケで来た時、トラブッて助けを求めてきたことだ。こういうと聞こえはいいが、まだコーディネイトの会社もわずかしかなく、メジャーのTV局でさえド素人の日本人留学生をアルバイトで使ったりする時代である。いざ撮影は始まったものの、学生アルバイトは使い物にならないとわかり、たまたま撮影クルーの知り合いが私だけ・・・・・・せいぜい、そんなところと思っていただければよかろう。
また、好奇心だけは強い人間なのでネタが必要だと聞けばあれこれ考え、結果はおおむね好評だった。反面、今でこそ面白い英語の小説なら1晩で読み通す私も、その頃はディレクターからたった1頁の英文パンフレットを渡され、「どういう意味ですか?」と聞かれて黙りこみ、およそ15分後に「これは・・・・・・」と最初の1行を説明しようとして詰まる。そこで、ディレクターが「もう、いいです」と言ったのは諦めなのか私への気遣いなのか、今も疑問が残ったままだ。
こういうパターンだと、仕事に慣れる頃、ついた顧客(クライアント)の顔ぶれ(ラインアップ)は自ずとユニークである。後日、ロサンゼルスで日本からのロケが定着し、日系プロダクションも増えてくると、その傾向はますます目立つ。中でも、この「ルート66」と題した撮影のコーディネイトを発注してきたIディレクターが、ユニークさでは郡を抜く。そして、フリーランスのIを抜擢したのが某TV局から制作を請けた六本木のOプロダクションだった。
Iとは、Oプロダクションの仕事で1時間の音楽番組を何本か撮ったつき合いだ。そんな彼が持ってきた「ルート66」は、同じ番組でも初めて3週連続のシリーズ物である。つまり、CMを除いて2時間15分程度にまとめられるだけの材料を撮らなくてはならない。お弁当箱のようなBetaの業務用カセット・テープがスーツケースにぎっしりの量、それをシカゴからロサンゼルスへ旅しながら1本づつ撮ってゆく。テーマの「ルート66」は、これが音楽番組といえば、かつて人気を博したアメリカのTV番組の主題歌であることは想像がつくだろう。
その時、ゲストとして招かれたホストとホステスは宇崎竜童・阿木曜子夫妻で、1回ごとに宇崎が「ルート66」を歌う。第1部はシカゴでブルースバンドをバックに、第2部はテキサスでカントリーバンドをバックに、第3部はロサンゼルスでロックバンドをバックに歌い、これが毎回のメインイベントだ。Iと打ち合わせた結果、第3部たるや自分自身のバンド“パルス”を率いて私の登場とあいなったばかりか、撮影場所には私のホームベースであるA&Mスタジオの一番広いBスタジオ(かつて“We are the World”を収録したスタジオ)を使い、その時、旅の中で宇崎が書いた曲を私の編曲で録音することも決まった。
こうして始まる1人2役の仕事は、まず単独でロサンゼルスへ乗り込んだIと合流し、ロケ場所を逆に辿ってゆくロケハンの旅で幕開けだ。ロサンゼルス→アリゾナ→ニューメキシコ→テキサス→オクラホマ→カンサス→ミズリー→イリノイと、駆け足で8つの州をながら無事ロケハンが終わり、シカゴで宇崎・阿木夫妻やクルーの連中と合流し、いよいよ本番である。この番組でいつもIと組むカメラマンは、これまたIといい勝負の変態(ユニーク)さ、久し振りに会うと懐かしい。
ともかく、途中、撮影を出来ないほどの雨が降ったりすれば、そこでのシーンは諦めざるをえないという強行軍だ。スケジュールにまったく余裕がないのである。それでも、出だしは快調だった。シカゴの由緒あるブルース・クラブで宇崎が地元のバンドと“ルート66”を歌い、阿木と語らいながらの旅はIのイメージどおり映像化されてゆく。慌ただしいスケジュールの中、シカゴから南下し、スプリングフィールドでリンカーンの生家を訪れたりした後、第1部の最後を飾るのがセントルイスだ。
川辺で見つけたクラブで撮ろうと若い黒人オーナーに交渉したら、彼女自身、歌手であり盛り上がったばかりか、私が駐禁のチケットをもらった話から、彼女はクラブ運営のかたわら私服警官の仕事をしていることまでわかった。ユニークなスタッフとユニークな撮影をしていると、出会う人間までユニークなものだ。ただし、ユニークすぎて先行きへ一抹の不安が脳裏を掠めたのも、この時である。 (続く)
横 井 康 和