映画とキャスティング


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もし「アラビアのローレンス」が
マーロン・ブロンドだったなら?
 第35回アカデミー賞作品賞および監督賞を受賞したデビッド・リーン監督作「アラビアのロレンス(1962年)」といえば、映画ファンならまず砂漠に立つピーター・オトゥールの雄姿を思い浮かべることだろう。その姿をマーロン・ブランドでイメージすると、そうとう違和感があるのでは?・・・・・・ところが、「アラビア・・・」は当初ブロンド主演で企画されており、最終的にオトゥールへ変更された経緯(いきさつ)があるのだ。

 ユル・ブリンナーは「王様と私(1856年)」で第29回アカデミー賞主演男優賞を受賞したが、この映画もまた当初のキャスティングではブリンナーでなくブランドが主演するはずだった。ブランド自身、「波止場(1954年)」で第27回アカデミー賞の主演男優賞を受賞しているとはいえ、ひょっとしたら「王様と・・・」が2度目のチャンスだったかもしれない。

 「王様と・・・」の主演を交代しなければブリンナーのオスカーはブランドの手に渡ったかどうかより、われわれ映画ファンが興味を引かれるのは、もし彼が「アラビア・・・」や「王様と・・・」へ主演したら、いったいどのような映画になっていただろうか?・・・・・・より素晴らしい名作の可能性もあれば、オスカーと無縁の駄作で終わった可能性もあり、それらの可能性は無限だ。当然ながら結論を求めるだけ無駄とはいえ、まったく別の映画が誕生したことだけははっきりしている。

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もし「アメリカン・ジゴロ」が
ジョン・トラボルタだったなら?
 なぜ主演が交代したか理由は千差万別である。「アメリカン・ジゴロ(1980年)」が企画された当初、主演ジョン・トラボルタは衣装合わせのためイタリアへ行くなど、クランクインに向かって着々と準備を整えつつあった。脚本監督のポール・シュレイダーがわざわざイタリアのファッション・デザイナーを起用したのは、主役のファッションがこの映画のキーポイントであると考えたからだ。

 ほとんど無名ながらそのセンスをかわれたデザイナーはトラボルタのワードローブをひととおり仕上げ、期待以上の出来栄えがクランクイン前の空気をいよいよ盛り上げた頃、トラボルタは母が亡くなったという知らせを受ける。母親思いで有名な彼はしばらくショックから立ち直れず、とても「アメリカン・・・」への主演が務まる状態ではなくなった。

 急拠、代役に選ばれたのがリチャード・ギアというあまり知られていない俳優で、さっそくイタリアへ送られて衣装合わせから始まった結果は、ご存じのとおりだ。トラボルタの母親が健在だったとしたら、今のギアは存在せず去年アカデミー作品賞を受賞した「シカゴ(2002年)」の弁護士役も誰か別の俳優が演じていたかもしれない。また、この映画はイタリアのデザイナーが成功するきっかけともなり、今では「ハリウッド好み」のファッション・デザイナーといえば彼の名前が出るぐらいの有名人です。ファッションと無縁の日本人でさえジョルジオ・アルマーニという名前だけは聞き覚えがありませんか!?

 母親の死で主演を降りたトラボルタのような明確なケースのいっぽうでは、何が理由で主演を交代したのか理解に苦しむケースもあり、多いのはむしろ後者のほうだ。円満そうな監督と主演の相性が悪いとか、ちょっとした誤解から亀裂を生じた信頼関係など、傍からでは見えないギャップが映画製作へ支障をきたすまで広がると、当人たちは一方が引くしかなくなる。たとえ些細な理由だったとしても、いい加減な仕事で妥協できない人間ほど、その傾向は強いかもしれない。

 どのような理由があるにせよ、こうした人間関係の対立は裏返せば映画への情熱であり、情熱があればあるほど意見の食い違いに妥協点を見出すのは難しく、その映画で力関係の弱いほうが最後は去ってゆく。もしスタジオが監督の才能へ投資した映画なら、たとえ知名度のある主演俳優であろうが監督と衝突して自我を通せば、スタジオは監督を残し別の俳優を探すのが妥当な線だとおわかりいただけるはずだ。

 事故もなく人間関係は円満でも、主演が交代する理由はまだまだあります。たとえば俳優のスケジュール調整が難しくなった結果、監督の興味は別の俳優へ移るとか、製作スタジオの上層部で起こった政治的な勢力争いが製作現場に及び、まったく無関係のスタッフを解雇した結果、映画へ影響するかもしれない。解雇されたスタッフのキャラクターは俳優との円満なコミニケーションに欠かせない存在だったと認識できたりするのは、そんな時だろう。

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もし「インディー・ジョーンズ」が
トム・セレックだったなら?
 キャスティングの変更は映画そのものを左右する。「インディ・ジョーンズ/失われたアーク《聖櫃》(1980年)」へハリソン・フォードが抜擢されたのは、企画段階の後半に入ってからです。当初トム・セレックが予定されており、製作総指揮のジョージ・ルーカスと監督のスティーブン・スピルバーグは合意していた。ただ、スピルバーグが完全に納得していたかといえばそうでもなく、原作(アイデア)を考えたルーカスへ敬意を表し妥協している部分もあったようだ。

 そういった状況下でセレックは後の人気TVシリーズ「マグナムP・I」の主演が決まり、「インディー・・・」との契約スケジュール調整しなくてはならなくなった。そこで問題が出てきた結果、スピルバーグはまだセレックに納得しきれていないこともあり、あっさりフォードへ主演交代が決まるのだ。もし、セレック主演で製作されていれば、「インディー・・・」はあれほどヒットしなかっただろうと多くの関係者が見でいる。

 別の主演なら主演シリーズ化されたかどうか怪しいのは「インディー・・・」ばかりでなく、「ダーティー・ハリー(1972年)」もその類(たぐい)の一典型だろう。企画当初の予定通りフランク・シナトラ主演で製作されていたとしたら、おそらく成功していたとしても映画史上にインパクトを残すほどヒットしなかったと思う。まして、クリント・イーストウッドがシリーズを通じて愛用したおかげで、アメリカでは「スミス・アンド・ウェッソン・マグナム44」の売行が伸びスミス・アンド・ウェッソン社の株価を上げるという現象は起こっていないはずだ。

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もし「ターミネーター」が
O・J・シンプソンだったなら?
 銃と並んでダーティー・ハリーが生んだトレンドといえば、彼の殺し文句Make my day」もずいぶん流行った。そして殺し文句といえば、「ターミネーター・シリーズ」などは1作目(1984年)の「I'll be back」や2作目(1992年)の「Hasta la vista, baby」といった、それ自体がいわばシリーズを通じたトレードマークのようなものだ。これらの殺し文句はアーノルド・シュワルツェネッガーならばこそだといえる。

 しかし、「ターミネーター」も最初からシュワルツェネッガーがキャスティングされていたわけではない。企画当初O・J・シンプソンの予定が紆余曲折を経てシュワルツェネッガー起用へ至ったのである。シンプソンの主演でヒットしたなら全米を沸かせた後の「シンプソン裁判」はまた違っていたかもしれず、事件そのものが起こらなかった可能性さえあるわけだ。

 もちろん過去に「If」は通用しないが、ハリウッッド映画のキャスティングへ秘められた様々なドラマは、時として出来の悪い三流映画よりエンターテインメント性がある。また、以上でご紹介した映画と限らず、主演の交代は決して珍しくない。企画から製作へのプロセスを考えるまでもなく、よほど小規模限られた登場人物の映画を除けばキャスティングは一発で決まるほうが稀だ。主演クラスに限ったとしても、多かれ少なかれ候補者を絞りながらクランクインへ漕ぎ着ける。

 第23回アカデミー賞作品賞を受賞したベット・デービス主演作「イヴの統て(1950年)」は、当初デービスでなくクラウデッタ・コルバートが予定されていた。同じく第52回アカデミー賞作品賞受賞作「クレイマー、クレイマー(1979年)」は、当初ダスティン・ホフマンの相手役を務める予定のケート・ジャクソンがスケジュールの関係上出演できなくなり、一時はメリル・ストリープからスーザン・サランドンまで候補に上がった末、ようやくメリル・ストリープで落ち着く。長い道のりを経た甲斐があって、主演男優賞や助演女優賞から監督賞や脚本賞なども独占、この年のオスカーは「クレイマー・・・」色一色で塗りつぶされた。
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もし「レインマン」が
ランディー・クエードと
デニス・クエードだったなら?

 「レインマン(1988年)」でも主演男優賞を受賞しているホフマンだが、そもそも「レインマン」の主演を予定されていたのはランディー・クエードデニス・クエードなのだ。それが最後にランディーからホフマンへ、デニスからトム・クルーズへ交代して完成したこの「レインマン」は、作品賞のほか監督賞脚本賞を受賞した。「告発の行方(1988年)」で主演女優賞を受賞したジョディー・フォスターもさることながら、「レインマン」が話題をさらって同年のオスカーは幕を下ろす。

 フォスターといえば、彼女が比較的最近主演した「パニック・ルーム(2002年)」は、本来ならばニコール・キッドマンの主演作となっているはずだ。キッドマンがどれだけこの映画へ入れ込んでいたとしても、トム・クルーズとの離婚で受けたショックはさらに強烈だった。主演を降りるほど彼女が打ちのめされなければ、フォスターと交代することはまずなかっただろう。

 母親の死で「アメリカン・・・」を降りたトラボルタ同様、キッドマンも運が悪かったと思いきや、運命とは皮肉なもので、何が幸いして何が災いするかわからない。離婚のショックから立ち直ったキッドマンは女優として一回りスケールが大きくなった。「パルプ・フィクション(1994年)」で「奇跡のカムバック」を果たしたトラボルタも、その裏では「アメリカン・・・」を降りた時の体験が活きているはずだ。

 監督と衝突して自我を通した結果、負け犬のごとく身を引くしかなくなった主演俳優は、それが別の映画で成功するきっかけとなるかもしれない。加えて、追い出されたもとの映画は失敗して監督が落ち目になる可能性だってある。そうすると勝負は力関係で負けた俳優の勝ちですが、勝って良かったか悪かったか、その先まではわからない・・・・・・結論として、人生の縮図がキャスティング・・・・・・ちょっと言いすぎですね!?

横 井 康 和      


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