映画とメイク
「ベンジャミン・バトン
数奇な人生」
「猿の惑星」
「エリザベス」
「X-MEN」
「ミセス・ダウト」
今年(2008年)のクリスマス・シーズンを狙って全米公開されるブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット主演のデヴィッド・フィンチャー監督作「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」は、老人として生まれ、だんだん若返ってゆくピット演じる主人公ベンジャミン・バトン(写真)の恋の物語だ。恋する相手が普通の女性である以上、彼とは逆にだんだんと年老いてゆくわけだから、メイクが重要な役割を占めることは容易に想像がつく。それは予告編を見るだけでもよくわかる。 このようなメイクが目立つ映画はけっこう多く、1つのジャンルとしてじゅうぶん成り立つ。そして、メイクのジャンルといえば、まず思い出すのがチャールトン・ヘストン(「ベン・ハー」)主演の1968年度作「猿の惑星(写真)」や、やはりブランシェット主演の1998年度作「エリザベス(写真)」と続編「エリザベス:ゴールデン・エイジ(2007年)」あたりだろう。
両者は同じメイクでも、まったく性格が異なる。「猿の惑星」の場合、ヘストンと一部の人間を除く出演者の大半は猿であり、その一人一人(一匹一匹?)の特殊メイクで時間がかかるのは当然だ。それに対して「エリザベス」の場合、自然体の女性のメイクでありながら何時間もかかっているのが不思議なようで、よく見ると相当な厚化粧であり、衣装も着付けは簡単そうじゃない。やはり、これらの映画がメイクで手間取るのはわかるし、それだけの効果が現われている。
こうして見ると、メイクには俳優を人間以外の生物へ変化させるパターンと、自然体の人間として変化させるパターンがあり、ほとんどの特殊メイクはどちらかに二分できるだろう。たとえば、一連の「スターウォーズ」で登場する宇宙人なら前者に、そして先の「ベンジャミン・バトン・・・」だと自然体で老けたり若返らせたりするのだから後者に属する。少し変わったところで、一連の「ミッション・インポッシブル」でトム・クルーズ演じる主人公イーサン・ハントが別人と成り代わる瞬間も後者のバリエーションだ。
別人と成り代わっている間のハントは、別人役の俳優が演じるとして、成り代わる瞬間、レイテックス製のマスクを被った後とか脱ぐ前はクルーズ本人が演じないと、観客は成り代わったことがわからない。したがって、ほんの一瞬でもいいからマスクを被せて別人に見せなくてはならず、そこで特殊メイクが活躍する。
その他、映画によっては当然ながら上記2つのパターンをミックスして使っており、「X-MEN ファイナル ディシジョン(2006年)」などがその好例だ。冒頭シーンで若き日のプロフェッサーX(エグゼビア)とマグニートーが登場し、観客は演じるパトリック・スチュワートとイアン・マッケランの若々しい姿を見て驚かされたであろう。ごく自然な2人の若さが本編へ入ってからの時間の経過を感じさせ、映画全体を盛り上げるあのメイクは上手い。
いっぽう、「ファイナル ディシジョン」を含む一連の「X-MEN(写真)」でヒュー・ジャックマン演じるウルヴァリンやハル・ベリー演じるストームなど数多くのミュータントが登場する中でも、込み入ったメイクという点ではレベッカ・ローミン演じるミスティークがぴか一だ。ビデオを見るとおわかりのとおり、そのメイクは全身に及ぶ。
あと、自然体のメイクで男性が女装したり女性が男装するパターンもよくある。1993年度作「ミセス・ダウト(写真)」は、離婚で子供たちと引き離されてしまった声優の良人が、我が子といつも一緒にいたいがため、おばさんへ変身、メイドとしてサリー・フィールド演じる別れた妻の家に潜入する物語で、ロビン・ウィリアムス演じるおばさん「ダウトファイヤー夫人」の姿が話題となった。じっさい物語はまずまずだが、メイクは一見の価値がある映画だろう。
同じく、実力はあるものの演技への執着から役に恵まれないダスティン・ホフマン演じる俳優ドーシーが、女装してドロシーへ変身、昼メロ「病院物語」の婦長役でデビューを飾るという「トッツィー(1982年)」も、よく似たパターンだった。基本的な筋書(プロット)は、プロの役者が実生活の中で女装して別人に成りすますと共通しており、メイクでは「ミセス・ダウト」に一歩譲る「トッツィー」ながら、こちらのほうが映画としては一枚上手といえよう。
ちなみに、ほとんどの特殊メイクで欠かせないレイテックスは、病院などで使われるシリコンの入ったゴム手袋でお馴染みの素材である。このレイテックスをどうクック(調合)すればいいか、ハリウッドの特殊メーク・アーティス達は早い時期から試行錯誤を繰り返し、現在へと到っている。それだけに、いくら邦画でこの分野が発達した今も、リアリティーではまだまだハリウッドと雲泥の差があるのは否めまい!
横 井 康 和