映画と登場人物
以前、「映画と原作」で述べたとおり、“物書き”とは人を観察する職業である。小説を書いていると、どうしても人が気になってしまう。誰を見ても、その人が内に秘めるドラマを求め、想いはとめどなく駆けめぐってゆく。飛行機で隣席の男が深刻な顔をしていれば、
「こいつ、出張の帰りかな?」
ふと、考え始めるや、もう止まらない。歳のころは40代中盤、身なりからして東部の人間と見た。名門校を出て出世コースへ乗っかるWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタントの略で典型的白人)、大企業の重役になったものの、先行きはもう一つ。自分自身の人生が納得できず、女房子供へも文句はないが満たされない不満・・・・・・日頃、それらの不満は心の底で沈滞していたのに、出張の目的が果たされなかったおかげで浮かび上がる。
映画化されたグリシャム小説の各登場人物こうして私なりに作り上げた人間像を、頭の中へファイルしておく。じっさいは水虫で悩んでおるだけかもしれず、意外と作家であるかもしれない。私の想像が当たっていることは、ごく稀だ。そして、いざ話してみると学校の先生であったりすると、いよいよ私は嬉しくなる。1人の人間から何人分かの“ネタ”を仕入れ、頭のファイルがますます脹らんでゆく。
そんなファイルは、いったん意識下へ埋もれるが、後日、コンピュータと向かい合い、ワープロを起こすや蠢(うごめ)きだす。私のアナログ・メモリーはコンピュータのデジタル・メモリーと相性がいいようだ。ワープロを起こした後は、頭の中で登場人物が動き出すのを待つ。動き出したら、こっちのもの! 現実の世界で人を見て楽しむように、彼らを楽しめばいい。
辛いのは、彼らが動き出してくれない時、こればっかりは為す術(すべ)もなく、ただただ焦る。その点、いわゆるベストセラー作家の著書を読むと、皆さん、さすがだ。人間描写の巧さで昔から定評のある作家といえばレイモンド・チャンドラーやレン・デイトン、しかし見方を変えると描写に拘(こだわ)りすぎる作家でもあり、むしろシドニー・シェルダンあたりが渋い。ただ、ベストセラー作家と呼ばれるのは人間描写が巧いからこそで、比較するのは無意味だろう。
マイケル・クライトンやジョン・グリシャムがあれだけ成功した要素の1つは、やはり人間描写の巧さであり、医者時代(クライトン)、弁護士時代(グリシャム)から人を観察する能力では人一倍長(た)けていたはずだ。また、彼らの小説がこぞって映画化されているのは、映画も小説同様、登場人物が重要な要素だということを考えれば頷(うなず)ける。もっとも、彼ら自身、映画とは無縁でなく、まだ弁護士時代のグリシャムが脚本を書いていたり、クライトンたるや“コーマ”や“ウェストワールド”の監督まで務めた前歴を持つ。
中でもハリウッドと密接なのは先のシェルダンで、小説のほとんどが劇場用あるいはTV映画化されているほか、“イースター・パレード”や“アニーよ銃をとれ”を含む映画23本と“ハート・トゥー・ハート”や“いとしの魔女ジニー”を含むTVシリーズ4本の脚本が成功し、舞台でも多くの脚本とプロデュース作がある。並の脚本家では、とうてい及ばぬキャリアへ、舞台のプロデューサーとして活躍するに至って、人間描写が巧いのは当たり前、なにを今さらと言われそうだ。ともあれ、小説でも映画でも、我々はそうした登場人物が織りなす世界に束の間の憩いを求め、それは時として心の洗濯となる。そして、心に響くドラマで重要なのが、主人公を盛り立てる脇役だ。登場人物を創作する場合、難しいのは、むしろこっちといえよう。反吐(へど)が出そうな嫌な奴、見ている(読んでいる)だけでムカつくような悪党、さらにムカつく悪党のくせ憎めない複雑なキャラクター、こういった登場人物はなかなか書けるものではない。
また、巧い作家ほど観客(読者)へ考えさせず、ストレートに人物像を伝える。映画の場合、そこへ役者の演技力が係わってくるのは当然だ。登場人物が揃い、完成したドラマも、いい作品ほどストレートに観客(読者)へ伝わってくる。私自身、映画を見たり本を読む時は、それが単純に笑ったり泣いたりできるものであれば満足だし、物を書く時は、それを読む人が単純に笑ったり泣いてくれる作品を目指す。書くほうは、なかなか思いどおりいってくれないが、それ故、私は書き続けるのかもしれない。今年もいい映画や本と巡り会い、そしていいものが書けるよう!!
横 井 康 和
著者からのお断りこのエッセイは、拙著“続・三文文士の戯言(1990年)”から一部抜粋し、加筆再編したものです。 |