映画とお国柄


 過去34年間、つまり私が日本からハリウッドへ引っ越して以来、邦画に詳しい数多くのハリウッド業界人から言われたのは、演技の根本が日本とハリウッドでは違う。日本の場合、感情を出そうとするいっぽう、ハリウッドの場合、感情を抑えようとする・・・・・・らしい。そう言われれば、たとえ俳優業と無縁の私でさえも納得する部分は多々あるわけだ。そして、演技の根本が違うということは、その背景にある文化や生活感が違うといえる。ただ、観客は俳優が演技の上で感情を出そうとするか抑えようとするか、いちいち分析しやしない。彼らへは単純に映画が面白いかどうかなのだ。
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「沈まぬ太陽」


 そこで、ちょっと角度を変えて考えてみたい。以前「映画と犯罪」の最後で触れた渡辺謙は、「新仁義なき戦い/謀殺(2002年)」の翌年、ハリウッドへの進出を果たして以来、一段とスケールアップして頑張っている。その彼が、去年(2009年)は日米の2作へ出演した。「沈まぬ太陽」と「ダレン・シャン」の2作だ。そして、前者が日本アカデミー賞で主演男優賞に輝いたいっぽう、後者は最悪の映画であった。
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「ダレン・シャン」


 なぜ、それだけ極端な違いがあるのか分析してみると、同じような傾向が他の出演作でも窺(うかが)える。まず、邦画「沈まぬ太陽」で渡辺の演じた役は言うまでもなく日本語を話す日本人であり、洋画「ダレン・シャン」の国籍不明で訛のある英語を喋る巨人役とまったく違う。国籍不明の役柄だと、彼の日本語訛の英語さえもがマイナス要因となり、それだけアメリカ人の観客への説得力はない。

 演技の根本が違うことはお国柄の違いでもある以上、単なる感情を出す出さないという(演技上の)方法論以前にアイデンティティの問題でもある。自分が何者なのか曖昧では、当然ながら演技も説得力を欠く。したがって、国籍不明の役柄では、やはり渡辺の良さが出ないのではないだろうか? 三船敏郎など、お国柄1本で勝負し、世界的に知られている好例だし、渡辺の場合もお国柄がはっきり出ている映画、つまり日本人役だからこそ成功したのだと思う。

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「ラスト サムライ」

 渡辺がハリウッド進出を果たしたきっかけは言うまでもなく「ラスト サムライ(2003年)」だが、この時の侍役では「ダレン・シャン」の時と違って同じ日本語訛の英語がプラス要因となり、同年のアカデミー賞で主演のトム・クルーズを差し置いて助演男優賞へノミネートされるまでに至った。

 その後、邦画「北の零年(2004年)」を経て2005年は再びハリウッドへ戻り、「バットマン ビギンズ」と「SAYURI」に出ている。「北の零年」は日本でそれなりの評価を受けているし、「サユリ」もハリウッド映画でありながら渡辺が演じたのは松下幸之助がモデルの日本人だ。日本人役である限り、実際は日本語を想定した英語の台詞(せりふ)に日本語訛があるのは、むしろ当然だろう。渡辺でなく英語しか喋れない東洋系のアメリカ人がキャスティングされたとしたら、その俳優は渡辺のような英語を喋ろうと練習するに違いない。

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「バットマン ビギンズ」

 いっぽう、「バットマン ビギンズ」で渡辺の役柄は国籍不明であり、期待と裏腹にその出番が少ないばかりか、ほとんど存在感はなかった。いったい何語か訳のわからない台詞(せりふ)しかりである。せっかく助演男優賞へのオスカー・ノミネートがこのブロック・バスター作での起用に結びつきながら、映画を見てがっかりしたのは、日本人同士としての同胞のよしみといえそうだ。

 ともあれ、この年、邦画「明日の記憶」へ出た渡辺は、翌2006年「硫黄島からの手紙」で再びハリウッド映画で日本人将校役を演じる。「ラスト サムライ」の侍役や「サユリ」の実業家役とひと味違いながら、やはり「カッコイイ」日本人役であった。それから冒頭の「沈まぬ太陽」や「ダレン・シャン」を経て間もなく話題作「インセプション」が封切られ、そこでの渡辺の役柄は斎藤という日本人なので、大いに期待できそうである。

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「シュレック フォーエバー」

 以上、渡辺謙という1人の日本人スターを巡って映画とお国柄を語ってきたが、同じように根本的なお国柄の違いを感じるのはアニメの世界だ。平面的なマンガの世界が原点である日本と比べ、ハリウッドではリアリティを求める故、「シュレック(2001年)」のリアルすぎるレンダリングがアニメらしくないという理由から、わざわざマンガっぽくするというようなエピソードまであった。一連の宮崎アニメや「名探偵コナン・シリーズ」、あるいは「ワンピース・シリーズ」を見る限り、日本ではまったく無縁のエピソードだ。

 もちろん映画として、たとえば「シュレック・シリーズ」が「崖の上のポニョ(2008年)」より優れていると言っているのではない。ただ、もともとリアリティを求めない日本のマンガは、アメリカだとしょせんお子様向けの映画に過ぎないのである。アメリカの本屋へ行って「Manga」コーナーがあるからと、日本文化(芸術)としてマンガ全体を捉(とら)えようなどというのはとんでもない話である。

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「崖の上のポニョ」

 そりゃ、日本の誇る浮世絵だって、もともと庶民の文化であり、今でいう雑誌のイラスト的なものだった。多くのイラストレーターの中から北斎のような天才が出て初めて、浮世絵は日本文化としての市民権を獲たわけだ。その点、マンガの場合、宮崎アニメですら北斎どころか歌麿のレベルへすら達していない。産業としてマンガがいくら外貨を稼いでも、芸術として日本以外で市民権を獲るのはまだまだ時間がかかるだろう。

 いっぽう、ハリウッドのアニメはCG(コンピュータ・グラフィック)の世界で北斎レベルへ達しているせいか、わざわざアメリカ文化などと誰も騒がない。アニメと限らずハリウッド映画そのものが既にアメリカ文化なのだから。以前「映画と世界」でも触れたが、日本のマスコミはすぐ「世界の××」と言いたがる。しかし、世界的に有名なほどそんな肩書が必要ないことをわかっていないようだ。

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「トイ・ストーリー3」

 宮崎アニメはアメリカでもそれなりに有名だし、間違いなく売れている。だが、その客層はお子様であり、決してトップ10へ登場しやしない。いっぽう、「シュレック2(2004年)」など公開時のトップ10で見事1位となったばかりか、歴代の全米トップ10でも実写映画に混ざって堂々5位へ食い込んでいる。子供だけの客層だと、まず考えられない。

 現在全米でヒット中の「トイ・ストーリー3」が、「シュレック2」に続いて間もなく歴代トップ10へ食い込みそうな勢いだ。たとえ10位以内は無理でも確実に15位以内へ入ると思う。「シュレック・シリーズ」が元ディズニーのジェフリー・カッツェンバーグとスティヴン・スピルバーグ、そしてデヴィッド・ゲフィン3人のドリームワークス・アニメーション・スタジオの製作に対し、「トイ・ストーリー・シリーズ」はディズニーのピクサー・アニメーション・スタジオの製作で、こちらのスタジオの場合アップル社のスティーブ・ジョブズが産みの親であり育ての親でもある。そういった背景を思えば、これらのアニメの成功も頷(うなず)けよう。

 話をお国柄へ戻し、最後にもう一つ、かつて現役のミュージシャン(芸人)だった私がいつも不思議に思うのは、ハリウッドの場合、成功した(芸人を含む)業界人ほど常識的というか腰が低い半面、日本の場合はどうも逆の傾向が強い。たとえば日本の楽屋では無言の掟でもあるのか、先輩後輩の違いがはっきりしている。ちょうど企業内での上司と部下のような関係で、良くいえば秩序正しく、悪くいえばまるで先輩は威張らないといけないような雰囲気なのだ。その点、ハリウッドだと売れない芸人ほど威張っている。

 また、ハリウッドの撮影現場では一番下っ端のスタッフから監督や主演スターまでが対等の立場で話す。その根底には全員が一丸となって物作りへ取り組むという姿勢、あるいは仲間意識がある。売れない時は威張っていた連中も、そういった仲間意識を持つともう威張らない。そこが日本と違う。要は個性を大事にするアメリカのお国柄と、集団を大事にする日本のお国柄の違いであろう。個性が大事なアメリカだと、売れる前はなるべく目立ったほうがいいから威張るのも方法の一つ・・・・・・ということで、次回は「映画と個性」について考えてみたい。

横 井 康 和      


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