映画と日常生活
弁護士や精神分析医はアメリカで多く日本で少ない職業の典型だと、以前「映画と国境」で書いた。それがアメリカと日本映画の違いへ反映されるのは当然の帰着だろう。しかし、もっと本質的な部分で映画を決定するのが、それぞれの国の日常生活というかライフ・スタイルである。たとえば、登場人物の会話を考えた場合、アメリカ映画の家族や恋人同士は愛情を言葉で表現し、日本映画ではしない。現実の世界がそういう日常生活を送っている以上、こうならなければ不自然だ。
先月末、95歳で他界した
ビリー・ワイルダー
何年か前、ロサンゼルスに住む私の友人が、仲のいいガールフレンドと突然別れた。彼は日本人で、ガールフレンドのほうはアメリカ人である。彼らがなぜ別れたのか思い当たらない私は、しばらくして理由を聞いたところ、その友人曰(いわ)く、
「何も特別な理由なんてないよ。ただ、毎日『アイ・ラブ・ユー』と『アイ・ミス・ユー』と言うのが疲れただけさ」と、あんがい涼しい顔をしている。それこそビリー・ワイルダーに描かせたらキマリそうな場面だが、私自身、アメリカで26年暮らすうちの半分近くはアメリカ女性2人と生活を共にした経験があるので、この言葉はそれなりの真実味があった。じっさい、相手を「ハニー」と呼び、しょっちゅう「I love you.」と「I miss you.」を言い続けることは、欧米の人間とつき合う上で重要なポイントだ。いくら相手を愛していようが、これらの意思表示を面倒くさいからと少し怠っただけで、場合によっては「あなた、もう私を愛していないのね!」などと深刻な誤解を招いてしまう。
こういう世界をアメリカ映画で見た日本人が、ある種の憧れを持ったとしても、もし自分で体験してみると事情は違ってくる。つき合い始めたばかりの恋人同士を除き、お互いが生活の一部となれば日本人はふつう相手に対する愛情を言葉で表現しようとしない。親子の関係しかりだ。子供が小さい頃からアメリカ人の親は何かといえば「アイ・ラブ・ユー」や「アイ・ミス・ユー」と言わせるような習慣がないばかりか、根本的な発想から違う日本人は言葉で表現できるような愛情を安っぽいと捉(とら)えがちだ。
「以心伝心」がいいか悪いかは別問題として、それが当たり前の環境で育った日本人は外国へ出た時、何でもないことに戸惑ったりパニック状態となる傾向が目立つ。長年培った習慣だけは、たとえ外国で永住しようが変わらず、結果、アメリカ人のガールフレンドへ「アイ・ラブ・ユー」と「アイ・ミス・ユー」を言うことすら煩(わずら)わしくなったりする。冷静に考えると理由らしい理由はないはずが、ふと先の友人のような事態を招く。いっそ彼も、
「南カリフォルニアの陽光が眩しすぎただけさ」と、ヌーベルバーグ全盛期のフランス映画よろしく私の質問に応えてくれれば・・・・・・いやいや、こういう台詞(せりふ)はアラン・ドロンのような男でないと格好がつくわけはない!?私の友人がガールフレンドと別れた理由を強いて言えば、日本人の彼は以心伝心でこそ深みを持つ感情の言葉による意思表示が負担に感じられたからだ。そして、負担に感じられた理由は典型的な日本映画をアメリカ映画と比べたら浮かび上がってくる。日本の映画史上、欧米で巨匠と認められた映画監督が何人かいる中でもよく知られているのは黒沢明、溝口健二、小津安二郎などであり、もっとも日本的だと評価されているのが小津の作品だろう。おもしろいのは、この小津自身がそもそもはアメリカ映画の模倣からスタートし、それを独自の完璧な世界へと高めていったことだ。
小津安二郎の遺作
「秋刀魚の味」
アメリカ映画を模倣しながらサイレント時代の早い時期に、カメラは必ず「ローアングルで移動なし、パンなし、溶暗(フェードアウト)溶明(フェードイン)なし、オーバーラップなし、激しい動きや特異なアングルなし」、そして登場人物も必ず「相似形に配置する構図、遠写か全身かバストまででクローズアップなし、喋る時にカメラへ向けた視線」が原則で、各シークエンスは必ず「場所(舞台設定)を示す風景が最初にあり、ついでようやく人物を登場させる厳格な手順」などへ固執した小津独自のスタイルは、まだ未完成なものも含めてほぼ原型が固まっていた。
そういった技術面で映画史上比類のスタイルもさることながら、アメリカ映画のエッセンスを体内で消化しつつ小津はまったく別の世界を築いてゆく。いわば「アイ・ラブ・ユー」と「アイ・ミス・ユー」が不可欠な世界へ、逆の「以心伝心」で挑んで相手を説得してしまった小津の「こだわり」は素晴らしい。彼が描いたのは、ごくふつうの日本人が、ごくふつうの日常生活を送る、一見ドラマなど無縁の世界だ。その中に心の襞(ひだ)を描くことへこだわり続け、いつしか「もっとも日本的」と評価され欧米で模倣されるようになった彼の映画を、ある人はテンポが遅くて退屈な映画だと思うだろう。
しかし、ゆったりとしたテンポでなければ小津映画特有の微妙な感情の動きは観客へ伝わらない。ちょっとした目線の動きや、さり気ない動作によって空気が色づき、なんともいえない世界を醸(かも)し出す。それは「以心伝心」の世界であり「行間を読む」世界なのだ。言葉で意思表示をするのが欧米文化だとすれば、日本文化は行間で意思表示をする。つまり、自分の意思をはっきり言葉で言うことが相手に対して失礼ではないかと気遣い、遠慮したあげくが「以心伝心」の文化を築いてきた。
溝口健二の代表作
「雨月物語」
小津映画の登場人物たちは、みんなおとなしい。そこで私が興味を引かれるのは、撮影中、同じテイクを何度も繰り返すことで有名な小津が、その中から何を選んだかだ。彼の下で修行を積んだ映画人の多くは、役者がせっかく最高の演技を披露しようと小津はさらにテイクを重ね、これらの素晴らしいシーンを採用しなかった不満を述べている。
それは小津が俳優へ「素晴らしい演技」でなく、「自分の思い描くイメージを忠実に表現する演技」のみを求めたからだろう。たとえ観客の心を動かすような際立った名演技であろうと、自分が求めるもの以外は彼の眼中になかったようだ。そこまでのこだわりが、いま世界の映画史へ巨匠「小津安二郎」の名を知らしめる原点に違いない。
黒沢や溝口と比べて小津の場合、欧米での評価は遅れたが、海外への影響ばかりか、スタイルは正反対の黒沢ですら晩年の作品に彼の影が窺(うかが)えると感じるのは、あながち私だけでもなさそうだ。じっさい、晩年の黒沢が書斎のビデオで小津の「東京物語」を見ていたと、かつて山田洋次は感銘深げに語ったという。
晩年の黒沢が、それまでとは正反対の奥ゆかしい人間像を描いたのが小津の影響であったかどうかはさておき、大半の黒沢映画特有の自己主張が強い主人公たちも、やはり「以心伝心」の世界で人間ドラマを繰り広げ、時代背景は関係なく日本人の日常生活が反映されている。溝口映画しかりで、ようは日本人の感性が作った映画として海外への説得力を持つ。スタイルこそ違え、こだわりや繊細さという点では3人ともワールド・クラスの異常さ、まったく遜色がないはずだ。
もちろん、さらに突き詰めれば日本映画もアメリカ映画も関係なく、良いものは良いし悪いものは悪い。「7年目の浮気」や「アパートの鍵貸します」などでビリー・ワイルダーが描いた人間ドラマに誘われる涙や笑い、そしてそこから伝わってくる仄々(ほのぼの)とした感触は、時として小津映画を思い出す。それでも、あえて私が日米の違いへ焦点を絞って書くのは、まず自分を知らないと他人(ひと)を知れないからである。
たとえば、日本人の男とアメリカ人の女が暮らすうち、いつしか2人の関係は疎遠になりながら、どちらもそれを気づいていないとしよう。しかし、言葉で意思表示を行うことが身についたアメリカ人は「アイ・ラブ・ユー」や「アイ・ミス・ユー」と言う回数が減り、態度もよそよそしくなる。すると、日本人はふだんの生活が以前よりスムーズに感じられ、彼女の変化はようやく「以心伝心」がわかってくれたからだと解釈した結果、ますます溝は広がってゆく。
とうとう破局を迎えた時、もし男が、
「ようやく、きみは僕を理解してくれたはずが、なんで・・・・・・?」などと口走ろうものなら、ただただ冷たい視線しか返ってこない。そこで問い詰めると、言葉を返す気力さえなくした女はせいぜい、
「ほんと、あなたってナイーブね!」と、呆れかえることだろう。これが「ナイーブ」本来の意味合いなのだ。そう言われて、
「たしかに俺は繊細すぎるのかもしれないな!」と、褒(ほ)められたつもりで反省する日本人がいるとすれば、彼こそアメリカ的なナイーブさを代表し、日本的なナイーブさとはほど遠い性格の持ち主なのである。こういうタイプの在米日本人ほど、相手から別れ話をもちかけられると、
「アイ・ミス・ユー、ハニー!」ローリング・ストーンズの往年のヒット曲「ミス・ユー」も、そんな観点からじっくり聴きなおすと、また違う趣(おもむき)があるのではないだろうか?
横 井 康 和